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三菱UFJ銀行の貸金庫窃盗事件の容疑者として逮捕されたのは、元行員の女性の今村由香理です。1/14()FNNプライムオンラインの記事《三菱UFJ銀行の貸金庫から顧客の金塊2.6億円相当を盗んだ疑いで元行員の今村由香理容疑者(46)を逮捕 警視庁》には、詳細情報が伝えられています。『三菱UFJ銀行の貸金庫から十数億円相当の顧客の金品が盗まれた事件で、警視庁は46歳の元行員の女を逮捕しました。窃盗の疑いで逮捕されたのは三菱UFJ銀行の練馬支店や玉川支店で支店長代理を勤めていた今村由香理容疑者です。

 

捜査関係者によりますと、今村容疑者は練馬支店に勤めていた20249月、2人の男性客が利用する貸金庫から金塊あわせて約20kg、時価総額26000万円相当を盗んだ疑いが持たれています。今村容疑者は、管理を担当していた顧客の「予備鍵」を使って金塊を盗み、複数の買い取り店で換金してFX投資などに充てていたとみられています。これまでの三菱UFJ銀行の調査で、今村容疑者は2020年から4年半にわたり、少なくとも60人の顧客から総額十数億円の現金や金塊などを盗んでいたとみられ、銀行は202411月に今村容疑者を懲戒解雇しています。

 

今村容疑者は、貸金庫の顧客が来店する際に、別の顧客の現金を補塡するなどして帳尻合わせをするなどし発覚を遅らせていたとみられ、警視庁は全容解明を進める方針です』。《ハッピートレンド》には、今村由香理・容疑者のプロフィールが書かれています。『〈今村容疑者の背景と銀行での役職〉関係者によると、今村由香理容疑者は1999年に当時の東京三菱銀行に入行した。東京都内の私立短期大学を卒業し、事務や窓口業務を補助する一般職として採用された模様だ。当初は勤務態度が良好で、仕事ぶりも評価されていたという。

 

一般職から、倍率の高い面接試験を突破して総合職に転向し、マネジメント業務に就いた。その後、練馬支店や玉川支店で支店長代理や営業課長を歴任し、順調にキャリアを積んでいるように見えた。しかし、貸金庫の鍵の管理業務を任されるようになると、その立場を悪用し、顧客の貸金庫から金品を盗む行為に手を染めた。同行によると、窃盗行為は20204月、練馬支店で勤務していた時期から始まったという。今村容疑者は貸金庫から盗んだ現金を別の貸金庫に移し、その詳細をメモに残していたほか、金塊を売却せず質入れする手口を取っていた。

 

関係者は「投資でもうけて、いつかは返そうともくろんでいたのではないか」と見ている。また、今回の事件では同行が管理する予備鍵が悪用されたとみられている。同行では、予備鍵は専用の封筒に封入し、定期的に点検していたという。しかし、今村容疑者による窃盗被害は約4年半もの間、気付かれることはなく、顧客からの指摘によってようやく発覚した。別の金融機関関係者は、「貸金庫の管理体制は銀行によって異なるが、2支店で同じ手口が続いたのは管理体制に大きな落ち度がある。通常の管理であれば、不正を見抜けたはずだ」と批判している。

 

〈今村由香理容疑者の人となり〉一部の報道によると、今村容疑者の自宅は練馬区とのこと。週刊文春の報道では閑静な住宅街で266坪もの広い土地に義父と夫(離婚済み?)3人で住んでいると伝えらえている。詳しくは文春の報道をご覧いただきたいが、近隣住民とのトラブルも起こしたり、性格のキツい人として認知されていたようだ』。三菱UFJ銀行の貸金庫窃盗事件の容疑者・今村由香理に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金。アクターか」と伝えられました。三菱UFJ銀行の貸金庫窃盗事件が暗号事件だとすると、容疑者もアクターとなります。

 

今村由香理・容疑者の画像は、逮捕連行される時のものが多いのですが、《集英社オンラインの記事》のようにピースサインをした変顔写真もあります。個人的に、その事件が暗号事件かどうかを見分けるポイントの1つに、メディアが出してくる容疑者の写真が不自然なものかどうか、があります。従来の事件・事故では、あり得ないような不自然で不可解な写真が掲載されていることが多々あります。メディア側は、ゴムの替え玉の有名人の場合と同様に、人々に気づかせるために意図的におかしな写真を使用するのです。次に、三菱UFJ銀行を追いました。三菱UFJ銀行の情報はwikiに記されています。

 

『株式会社三菱UFJ銀行は、東京都千代田区丸の内に本店を置く、三菱グループの一員である三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)傘下の都市銀行である。三井住友銀行(SMBCグループ)、みずほ銀行(みずほフィナンシャルグループ)とともに3大メガバンクの一角を占める。三大都市圏に経営基盤を持つ国内最大手銀行である。[概要]200611日に東京三菱銀行とUFJ銀行が合併して、三菱東京UFJ銀行として誕生した。ただし、登記上は11日に商号変更、14日に合併となっている。当初は2005101日を合併日と発表していた。

 

しかし、みずほ銀行における勘定系システムの失敗事例を教訓に、合併時のコンピューター・システムの接続作業に万全を期するため、合併が3か月延期されている。存続会社は東京三菱銀行であり、金融機関番号(0005)や本店所在地も東京三菱銀行(起源は三菱銀行)と同じである。なお、SWIFTコードについては外国為替専門銀行であった前身の東京銀行をそのまま引き継いでいる。20091月を以て新システム移行が完了して、旧東京三菱店と旧UFJ店の共同店舗化も活発に行われているが、20136月現在も旧東京三菱店と旧UFJ店の間の(システム上での)店舗統合は一切行われておらず、発表もされていない。

 

ただし、各種振込手数料について共同店舗間の振込は「同一店宛」の手数料が適用される。20175月、201841日を目途に法人貸出等業務を三菱UFJ信託銀行から会社分割方式によって移管すると発表した。またこれにあわせ、商号を「三菱東京UFJ銀行」から「三菱UFJ銀行」に変更することも発表した。なお、前身のひとつである東京三菱銀行は公的資金の返還を早期に完了させるなど、旧4大メガバンクの中では財務の健全性が強い銀行であった。不良債権処理の遅れたUFJ銀行を統合した事により、公的資金注入行に再転落したが、200669日にはその返済も完了させている。

 

これを受け、1998年から自粛していた政治献金も、銀行業界の先陣を切って再開する方向で調整に入っていたが、不良債権処理を完了させてその間法人税を免除されたのにもかかわらず、政治献金を再開することは国民感情を逆撫でするという批判を受けて見送りとなる。旧三菱銀行の流れを汲むことから、三菱金曜会および三菱広報委員会に所属している。また、三菱商事、三菱重工業とともに三菱グループ(旧三菱財閥)の「御三家」と呼ばれる。また、前身行の一つである旧三和銀行の流れから三和グループの企業で構成される三水会やみどり会にも加盟している』。

 

福沢諭吉、大隈重信、岩崎弥太郎が設立した支配層の松利権網が絡む「横浜正金銀行」と「貿易商会」》には、三菱UFJ銀行の前身の1つである東京銀行の源流となる「横浜正金銀行」について記しています。wikiによると、『横浜正金銀行は、かつて存在した日本の特殊銀行。1880(明治13)に開設された国立銀行条例準拠の銀行で、外国為替システムが未確立だった当時、日本の不利益を軽減するよう現金(正金)で貿易決済を行なうことを主な業務としていた。その名の通り神奈川県横浜市中区に本店を置いた。東京銀行(現在の三菱UFJ銀行)の前身とされる。

 

貿易金融・外国為替に特化した銀行であり、明治維新後急速に成長し、やがて列強の仲間に加わっていく日本を国際金融面で支え、香港上海銀行、チャータード・マーカンタイル銀行と並ぶ外国為替銀行へと発展していった』と記されています。現在の三菱UFJ銀行は、支配層・八咫烏のメインバンクの中核と見ており、横浜正金銀行はその源流です。横浜正金銀行は、現実面では、支配層の裏の松の金を扱って調整する役割を担っていたと推測しています。そもそも、銀行そのものが、支配層の松利権という裏金を隠すために、表の金と混ぜる処理を成す隠れ蓑として役割を担っていたと見ています。

 

日本で最初につくられた銀行は、渋沢栄一が創業した「第一国立銀行(旧第一勧業銀行・現みずほ銀行)」です。《みずほFG:1868年~ 明治維新~近代》によると、『1873年 渋沢栄一が日本で最初の銀行となる「第一国立銀行」を設立中央銀行としての日本銀行の創設以前の混乱期において、第一国立銀行は銀行の模範となる業務の開拓や改善に大きな貢献を果たした』と記されています。明治時代には、渋沢栄一、福沢諭吉、大隈重信、岩崎弥太郎などの支配層の重鎮だちが、裏の金儲けのために松利権網としての銀行をこぞってつくって行ったのです。(つづく)