ニッポン放送の初代の代表取締役専務は鹿内信隆(しかないのぶたか・日経連 専務理事)です。鹿内信隆は、フジサンケイグループの創業者でもあります。個人的には、フジサンケイグループの歴史的な基盤構築において、非常に重要な役割を果たして人物だと捉えています。鹿内信隆の経歴はwikiに記載されています。『鹿内信隆(1911年-1990年)は、北海道出身の実業家。フジサンケイグループ会議議長。[経歴]〈出生から学生時代まで〉津軽藩の御蔵番だった祖父が、御維新で北海道樺太監獄の典獄長(刑務所長)に左遷され、北海道に渡る。
北海道の夕張郡の当時は人口6,000人程度の村だった由仁町に父・鹿内徹、母・モヨの長男として生まれた。母・モヨは写真館を経営していた。父・徹は撮影技師だったが由仁町に来てからは歯科医になった。1924年、岩見沢中学に進むと弁論部に入って主将を務めていたが、鹿内は、「小生意気な子供であった」という。通学用の革靴が買えなくて、母親の婦人靴をぱかぱかいわせながら穿いていた。母親も事あるごとに借金しようとしたが、由仁町の平均的生活感情からは、「変った一家」とみられたため、誰も金を貸すものはいなかった。1929年に単身上京し、早稲田第一高等学院に入学した。
同校では演劇に熱中、左翼的空気の中で脚本や演出を学んだ。この頃の仲間には、後に社会派の映画監督となる山本薩夫や谷口千吉らがいた。3年後に早稲田大学政治経済学部に進学した鹿内は財政学を専攻し、研究サークル「政経攻究会」に所属した。このころの鹿内のあだ名は、“図書館ゴロ”であったという。〈倉敷絹へ〉1936年大学を卒業して、何としても新聞記者になろうと思っていたが、当時早稲田の教授で、東京日日新聞の副主筆も務めていた阿部賢一に叱責を受け、阿部の斡旋で倉敷絹織(現在のクラレ)に入社した。鹿内は、同社専務で事実上の社長を務めていた菊池寅七に預けられたが、菊池は後に信隆の岳父となった。
鹿内は四国の工場に配属され、1938年になると、特殊金属を扱う企業として新たに倉敷絹織が設立した日本電気冶金三徳工業に転籍した。〈軍隊時代〉1938年に応召し、予備役召集第1回の士官候補生となり牛込区若松町に置かれていた陸軍経理部に進み、のち主計少尉。軍務時代慰安所設置などに尽力(本人著「いま明かす戦後秘史」に詳しい)。鹿内は監督官の立場で、軍需工場を見て廻り、日清紡の営業部長で軍と折衝していた桜田武や大日本再生紙社長の水野成夫らと、需給計画を通じて知り合い、有力財界人と急速に親しくなる。岩畔豪雄をリーダーとする陸軍戦備課は1938年、軍用の製紙会社・国策パルプを設立した。
続いて水野と南喜一を支援して1940年大日本再生製紙を設立するが、鹿内はその担当事務官であった。ただ、水野は岩畔との関係からインド独立工作に一生懸命で、水野に会ったのは戦後だという。〈戦後〉除隊後の1943年、鮎川義介の日産コンツェルンが資金的にバックアップしていた日本電子工業の創立に関わり、戦後はリュックサックを背負ってヤミ屋もやったが、1946年4月の経済同友会創設に参画。鹿内は当時、全く無名の日本電子工業常務であったが、戦中からの付き合いだった「財界四天王」からの信任を得て、36歳の若さで設立総会の司会を務めた。戦中から仕事の付き合いがあった桜田が鹿内を非常に買った。
同年6月の関東経営者協会の発足で、桜田委員長=鹿内信隆副委員長という労務問題でのコンビを成立させ、これが総労働に対する資本家側のタテとして発足した1948年4月の日本経営者団体連盟(日経連)設立に至る。桜田は日本電子工業の常務だった鹿内を引き抜いて、日経連の初代専務理事として迎え、桜田総理事=鹿内専務理事として再びコンビを組み、戦後の約10年間にわたって、日本共産党に指導されて各地で起こったラジカルな労働争議と闘った。また桜田の師匠・宮島清次郎が若手財界人を束ねて帝大同期の吉田茂政権を支援したことから、桜田を通じて政財界人脈を拡げることになる。
混乱期に「財界四天王」からの信任を得て、「財界主流派」の中心メンバーとして、戦後の日本経済の基盤作りを行い、政財界の舞台裏を取り仕切った人物の一人である。鹿内自身「私のいちばん記録に残すべき時代は日経連時代なんです」と述べている。「財界四天王」+桜田の弟分・今里広記らが鹿内を後見人として見守り、戦後の1954年のニッポン放送設立に加わり、1957年文化放送の社長になった水野と協力してフジテレビを開局させた。これらは財界のためのマスコミ機関として認識された。1961年、ニッポン放送社長、1963年にフジテレビ社長に就任する』。
経歴から鹿内信隆は、日本を深い暗闇にした支配層の裏の任務と重要人物に関係していたことが分かります。まず、鹿内信隆の出自ですが、祖父が津軽藩の御蔵番で、北海道樺太監獄の典獄長(刑務所長)でした。《北海道月形町の樺戸集治監で松システムをつくっていた》にありますが、支配層は、北海道樺太監獄(樺戸集治監)で明治時代からの裏の金儲けの仕組である「松システム」のプロトタイプ(試作モデル)をつくってきました。道路などのインフラ整備(強制労働・囚人道路)、偽札作り、味噌・醤油などの松成分入りの発酵食品、水を闇するための水道網など囚人を使って闇のシステムを試作してきたことが分かっています。
また、詳細は別の機会に譲りますが、江戸時代の津軽地方では、アヘンの原材料であるケシが政策的に栽培されており、アヘンを用いた漢方薬「一粒金丹(いちりゅうきんたん)」が製造販売されていました。さらに、津軽藩の初代藩主・津軽為信はキリスト教に接近して、2人息子の信建と信牧が受洗させています。津軽には、徳川家康の禁教令により、関西の士族信者が流刑されており、裏でイエズス会が絡んでいると推察します。こうしたことから、津軽藩の御蔵番だった鹿内信隆の祖父は、薬利権を含めて、北海道月形町の樺戸集治監の典獄長(刑務所長)に抜擢されたのです。鹿内信隆は、祖父の闇の役割を引継いでいると感じます。
鹿内信隆自身はどうかと言うと、軍関係では岩畔豪雄(いわくろひでお)の実質的な子分となっています。wikiの「エピソード」には、『戦中、陸軍省経理局のエリート将校だった鹿内は、謀略家として知られた岩畔豪雄に近い部下であった。鹿内の半端な除隊も謀略の一作戦と見られ、常務として入社した日本電子工業は陸海軍の表に出せない金を処理する影の部隊だったといわれる。鹿内はここで敗戦の準備や占領軍の慰安所設置の仕事をして、戦後、GHQと親しくなっていく。鹿内や植村甲午郎はM資金にも手の届く位置にいたとされる』と記されています。
《北朝鮮の暗闇に繋がる陸軍中野学校と黒龍会》にありますが、岩畔豪雄は、実質的な陸軍の松工作員養成所としての陸軍中野学校を設立した人物です。岩畔豪雄は、支配層・八咫烏鶴派の重要工作員であり、子分の鹿内信隆も八咫烏の工作員の任務を遂行していたのです。鹿内信隆は、フジテレビの初代会長となる植村甲午郎と共に、GHQが接収したとされる支配層の巨額裏金であるM資金を利用する立場にあったと見ています。鹿内信隆は、「軍務時代慰安所設置などに尽力」「占領軍の慰安所設置の仕事」を成してきたことがwikiに記されています。
《元日本兵の証言に見る日本軍慰安婦》には、慰安所開設に関わった鹿内信隆の言葉が記述されています。『元サンケイ新聞社社長鹿内信隆は桜田との対談で、陸軍経理学校時代の話が「慰安所の開設」になったとき、次のように語っている。「そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分――といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。」(桜田武・鹿内信隆「いま明かす戦後秘史」)
慰安所を担当した主計将校に慰安婦の選別の基準まで軍で教育していたことがわかる』。こうした大日本帝国陸軍の軍人という八咫烏の工作員時代の鹿内信隆の思想と経験が、フジテレビにおける女子アナの上納システムや男尊女卑の企業風土に密接に繋がっていると見ています。これは、女性の光を封印して暗闇にする八咫烏の役割の本質部分でもあります。実は、この慰安所は、軍人の性的欲求の処理だけではなく、松システムの重要拠点でもあります。《遊郭が絡む子供の松果体収穫の闇の仕組》では、2021年(令和3年)12月17日に大阪ビル火災事件が起きた大阪市北区曽根崎の地に着目しています。
『大阪市北区曽根崎の名所の法清寺、露天神社には遊女の言い伝えがあり、ヒントでもあります。遊女を妊娠させて子供を奪い、松取りの犠牲にする仕組が浮かびます。昔から金儲けのために女性を封印して子供の命を奪う深くて大きな闇が潜んでいたと感じます』とあります。遊郭や慰安所は、女性が妊娠することで支配層の裏の金儲けである松利権の拠点となるのです。wikiには、『「財界四天王」+桜田の弟分・今里広記らが鹿内を後見人として見守り、戦後の1954年のニッポン放送設立に加わり、1957年文化放送の社長になった水野と協力してフジテレビを開局させた。これらは財界のためのマスコミ機関として認識された。
1961年、ニッポン放送社長、1963年にフジテレビ社長に就任する。・・鹿内は1967年、フジサンケイグループ会議初代議長に就任した』とあります。フジテレビをはじめとするフジサンケイグループは、財界のためのマスコミ機関として作られたのです。フジサンケイグループの創業者・鹿内信隆の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「サンカ」と伝えられました。支配層・八咫烏の現場工作員であるサンカの役割を担っていたと捉えています。鹿内信隆は、芸能界とメディアが繋がるテレビ局という華やかな世界の裏側にある、支配層鶴派の胴元工作組織・創価学会が絡む松システムの基盤を構築したと感じます。(つづく)