生島企画室の創業者/元会長の生島ヒロシがパーソナリティーを務めていて降板したのは、TBSラジオ「生島ヒロシのおはよう定食」「生島ヒロシのおはよう一直線」です。生島ヒロシは、元TBSアナウンサーですが、古巣は、TBSラジオです。重大なコンプラ違反を起こしたという「生島ヒロシ問題」は、生島ヒロシ個人だけではなく、源流となるTBSも深く関係していると見ています。生島ヒロシと縁が深い「TBSラジオ」「TBSテレビ」「TBSホールディングス」の3社について追跡していきました。
TBSラジオの情報はwikiに記されています。『株式会社TBSラジオは、TBSホールディングスの連結子会社で、関東広域圏を放送対象地域とする中波放送(AMラジオ放送)事業を行っている特定地上基幹放送事業者である。ラジオネットワーク、JRN(Japan Radio Network)のキー局である。略称は厳密には存在してはいるが、ラテ兼営時代の通称かつラジオ分社以降の呼出名称(コールネーム)でもある現社名かグループ会社(兄弟会社)のテレビ単営局TBSテレビ共々TBSと表記される場合が多いため、略称が用いられる場合は滅多にない。
AM周波数が954kHzであることから関東ローカル向けにはTBSラジオ954または954 TBSラジオという呼称も使用されていた。しかし、2015年12月7日よりFM補完中継局が周波数90.5MHzで開始したことからジングル等の変更が行われた。コーポレートメッセージは「聞けば、見えてくる。」「ときめくときを。」。[概要]1950年(昭和25年)、電波監理委員会はラジオ民間放送への門戸開放について、当面は東京2局、その他1局に対し認可を認めることとした。
これに対し、個別に民間放送の準備を進めていた「朝日放送」(大阪の朝日放送と同じく朝日新聞社による計画)、「ラジオ日本」(毎日新聞社による計画)、「読売放送」(読売新聞社による計画)、「東京放送」(日本電報通信社による計画)の4社は、原安三郎らの仲介により合同を模索。開局申請を一本化することとし、1951年(昭和26年)1月10日に株式会社ラジオ東京(資本金1億5,000万円)として電波監理委員会に申請書を提出した。同年、12月25日に全国で6番目、東日本初の民間放送局として開局した。
当時の局名はラジオ東京(ラジオとうきょう・社名も同じ)。1955年(昭和30年)テレビジョン放送事業参入の後、1960年(昭和35年)に社名が東京放送(とうきょうほうそう)に、略称がTBSに変更されて以降、ラジオ放送事業はTBSラジオと呼ばれることとなった』。4社が競合していた開局申請を一本化した実質的なTBSラジオの設立者が、原安三郎(はらやすさぶろう)です。原安三郎の経歴はwikiに記載されています。『原安三郎(1884年-1982年)は、徳島県徳島市出身の実業家。日本化薬会長、東洋火災海上保険株式会社(現・セコム損害保険)初代会長に就いた。
日本化学工業協会会長、政府税制調査会会長などを歴任し、日本財界の重鎮として活躍した。生家は江戸時代、蜂須賀家の家臣。徳島市名誉市民。[経歴]徳島中学(現・徳島県立城南高等学校)を卒業。1909年:早稲田大学部商科を首席卒業。1912年:三井物産常務取締役であった山本条太郎と個人的な関係のある事業に関与しつつ、日本化薬の前身である日本火薬製造会社に入社。後、社長に就任。1965年:早稲田大学名誉博士学位を贈呈。1970年:勲一等瑞宝章を受章。1980年:徳島市名誉市民。墓所は港区光林寺』。
原安三郎は、日本火薬製造会社(現・日本火薬)に入社し、会長に就任していることから、支配層の松利権に直結していたと見ています。《同志社大学に多額な設立資金を寄付した後南朝の奈良吉野の林業家・土倉庄三郎》にありますが、火薬の原料とされる硝石(塩硝)は、実は、肉の防腐剤として現在でも使用されています。塩硝の名産地でもる白川郷の五箇山などの隠れ里では、古くからトカゲが化けた支配層の権力者のための食人用の肉をつくっていた可能性があります。砲薬製造所では、鉄砲、大砲などの軍用武器の火薬原料としての硝石を裏で、食人用の肉の塩漬けに利用していたと捉えています。
織田信長の鉄砲隊からも火薬が松取りに繋がって来ます。戦争が支配層の松利権工作であることが、火薬によって分かりやすく理解できます。TBSラジオの実質的な設立者の原安三郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員。ヤクザ」と伝えられました。やはり裏世界で暗躍できる力のある工作員だったようです。TBSラジオの初代社長は、清水洋二(しみずようじ)です。経歴はwikiに記載されています。『清水洋二(1942年-)は、東京都出身の実業家。TBSラジオ&コミュニケーションズ(現:TBSラジオ)初代社長。
TBSホールディングス(TBSHD)社長室参与。[来歴]1949年4月-学習院初等科入学。1965年3月-学習院大学経済学部経済学科卒業。1965年4月-東京放送に入社。1989年6月-テレビ営業局スポット専任部長。1989年7月-ラジオ総局ラジオ営業局営業部長(後にラジオ編成局制作局長、取締役ラジオ総合企画室長に就任)。2000年4月-取締役ラジオ局局長。2000年10月-TBSラジオ&コミュニケーションズ代表取締役社長(分社により就任)、株式会社東京放送取締役(兼務)。2007年6月-TBSラジオ&コミュニケーションズ代表取締役会長(初代会長)。
2008年6月-社団法人デジタルラジオ推進協会理事長。2015年-旭日中綬章受章』。TBSラジオの初代社長・清水洋二に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「アーク」と伝えられました。公式サイトには、TBSラジオ役員一覧が掲載されています。TBSラジオの代表取締役会長は、向山明生(むかいやまあきお)です。経歴は《Japan Innovation Review》によると、『TBSテレビ 執行役員 IT戦略担当。東京出身、新卒で東京放送に入社。報道畑を進み、ワシントン支局勤務。「筑紫哲也ニュース23」の編集長、「サンデーモーニング」のプロデューサー、経済部長などを歴任。
数年前から技術IT部門に転じ、現在はTBSの業務や事業のDXを通じて、世界に通じる新たなコンテンツ作りをサポート』と記されています。TBSラジオの取締役社長は、林慎太郎(はやししんたろう)です。経歴は《IRBANK》によると『生年月日:1965年1月31日生。[略歴]2011年6月株式会社東京放送ホールディングス(現株式会社TBSホールディングス)次世代ビジネス企画室担当部長。2013年4月株式会社TBSテレビメディアビジネス局海外事業部長。2015年4月同社営業局長。2018年6月株式会社BS-TBS常務取締役。2020年6月当社取締役(現任)。2020年6月株式会社青森テレビ常務取締役(現任)。
2020年6月株式会社TBSテレビ執行役員(現任)』と記されています。社長が代表権を持っていない会社は、とても珍しいと思います。一般的には、代表権は社長が有して会長は代表権を有さない場合があります。TBSラジオの代表取締役会長・向山明生、取締役社長・林慎太郎、本社所在地(東京都港区赤坂五丁目3番6号 TBS放送センター9階)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「ゴム」「DS」「いいです」と伝えられました。TBSラジオの会長は、既に替え玉になっているようです。実は、TBS放送センターのある東京赤坂は、東京目黒と同様に重要な水の場所という光の地である故に、創価学会の拠点でもあります。(つづく)