Monument_to_Soen


札幌市中央区の「桑園(そうえん)」の歴史についてネットで調べると、wikiに情報が掲載されていました。桑園の地は、山形県酒田市の旧庄内藩と深く関係していました。『桑園は、北海道札幌市中央区の一部を指す地名。明治時代、養蚕のため桑畑が広がっていたことに由来する。名称に桑園を冠した鉄道駅(桑園駅)や道路(福住桑園通、北海道道326号桑園停車場線)、学校が、札幌駅や札幌駅前通から見て西方にあり、桑園地区町会連合会も存在するが、住居表示などに使われる公式の町丁ではないため明確な境界は存在しない。

 

[歴史]1875(明治8)、開拓大判官を務めていた松本十郎は、札幌の南1条から北、西8丁目から西の地域を切り開くため、出身地の旧庄内藩(当時は酒田県)から元・武士157人を招聘した。彼らは郷里で、養蚕を営む松ヶ岡開墾場(現・山形県鶴岡市)を立ち上げた経験があった。6月から9月にかけて約100日間、月明かりのある夜は午前0時まで作業して約4万本の桑の苗木を植える穴を掘り、21万坪の土地を開拓してから帰郷した。北海道知事公館は旧庄内藩士の宿舎跡に建てられ、西門近くに「桑園碑」という石碑がある。

 

その翌年には、桑畑は48万坪まで拡大した。このため一帯は「桑園」と呼ばれるようになり、大正時代まで入居者は誰しもカイコを飼うことを約束させられた。元は桑畑が広がっていた一帯も明治の末から民家が増え始め、大正になって区画整理がされたことで急速に宅地化が進行した。1927(昭和2)、札幌市電北五条線が札幌駅から開通。さらに1929(昭和4)には、桑園駅から北五条線に接続して市の中心部までいける桑園線が開通した。しかしこの桑園線は単線で運行本数を増やせなかったことと、当時の桑園駅はまだ貨物駅としての運用が中心で旅客が少なかった。

 

このことから、1960(昭和35)に廃止された。残る北五条線も1971(昭和46)に廃止されている。こうして一帯から市電は消えたが、1988(昭和63)の函館本線高架化を契機に、桑園駅前は大規模な開発が行われて再活性化。かつての市電停留所近辺にもマンションが林立するようになっている。[施設]・JR北海道 桑園駅 ・札幌市立桑園小学校 ・北海道知事公館 ・市立札幌病院 ・イオン札幌桑園ショッピングセンター』。北海道開拓時代に桑園の地を拓いたのは、旧庄内藩の人たちでした。

 

桑園のはじまり》には、桑畑の具体的な場所や知事公館についても言及されています。『明治8(1875)、当時の開拓使は、開拓の任にあたる屯田兵の人々に養蚕をすすめるため、現在の北1条から北10条、西11丁目から西20丁目の全域を桑畑にすることと決めました。桑畑を作るためにあたっては、養蚕に長い歴史と経験をそなえた庄内藩(今の山形県)から、それまで侍だった人たちが招かれ、約4ヶ月間に渡って開墾の鍬が振り下ろされます。その彼らが寝泊まりした場所として選ばれたのが、豊かな湧き水を有した現在の知事公館の場所でした。

 

その後、この場所は開拓史の桑園事務所となり、養蚕事業の拠点となります。やがて、桑園事務所の土地は明治25(1892)に、開拓使の官吏であり札幌農学第2代校長もつとめた、森源三氏が購入し邸宅を設け自らも養蚕に従事します。その後、大正4(1915)には、この敷地と邸宅を三井合名会社が購入し、三井倶楽部(もしくは三井別邸)として来客の応接等に使用、昭和11(1936)12月には、新館も建設されました。戦後、三井倶楽部と敷地は、アメリカ軍に接収されましたが、昭和27(1952)に札幌市の所有となりました。

 

その後、昭和28(1953)に道の所有となります。森源三氏以来の建物はこの年に取り壊されたので現在の知事公館とは昭和11年に建設された新館のことになります』。桑の木を植えるために開墾していた庄内藩の人たちの宿舎の場所が、現在の北海道知事公館です。北海道知事公館には、20203月に巡礼の旅で訪れて光を降ろしていました。《北海道 水の場所が封じられた北海道知事公館 ~巡礼の旅(525)~》に詳細が記されています。北海道知事公館の敷地内には、メムと呼ばれる湧水の場所が2箇所あり、太古には先住民のやまとびとが居住していた場所です。

 

この湧水地の光の精霊を松取りによって闇に変えて暗闇にしてきたのです。現実的には、支配層の金儲けのための養蚕・製糸業ですが、エネルギー的には、光の地を封印して暗闇にすることでした。もう1つ、なるほどと思ったことがあります。ここ2ヶ月前くらいから「山形」のワードを見たり聞いたりしていました。明らかに山形の地に関係するワークのサインでした。1月末のお話会には、山形県在住の方が参加しており、スカイプの音声には、宇宙的な雑音が幾度も入っていました。今から思うと山形のサインだったと感じます。

 

現在の桑園地区を開拓するために庄内藩の武士を招聘した開拓大判官の松本十郎を追っていきました。松本十郎の経歴はwikiに記されています。『松本十郎(1840-1916)は、明治時代初期に活躍した庄内藩出身の官僚。開拓使で北海道開拓事業にあたる。旧名は戸田 直温、通称は総十郎。[来歴・人物]鶴ヶ岡城城下で近習頭取であった戸田文之助の嫡男として生まれる。幼名は重松。幼い頃は田宮流居合の修行を好んで学問を始めたのは遅かったが、藩校でその才を開花させ、後には江戸昌平黌に通う事を許される。

 

文久3(1863)、江戸幕府から蝦夷地西部警備の命を受けた庄内藩は戸田文之助・総十郎親子らを天塩の苫前・石狩の浜益へと派遣する。総十郎はこの地において地元のアイヌの生活などを見る機会に恵まれた。戊辰戦争では、総十郎は藩の使者役を務め、各地で新政府軍と戦うも敗北、藩主酒井忠篤は幽閉されてしまう。これに憤慨した総十郎は藩主と庄内藩に対する恩赦を嘆願し、これが叶わなければ庄内攻撃の責任者であった黒田清隆と相討ちの覚悟で京都に赴く。この際、朝敵藩出身である事を隠すために名前も「松本十郎」と改名した。

 

だが、京都で黒田が西郷隆盛とともに庄内藩の恩赦に奔走していた事を知ると、松本は黒田にその非を詫び、黒田も松本の人物を認めて、自分が任じられる事となった開拓使入りを勧めた。明治2(1869)、松本は根室国に派遣されて現地の開拓の責任者である開拓判官に任じられる。同地は北海道でも最果てという事で半ば流刑地のような状況であった。属僚130名を連れてこの地に入った松本は学校や牢獄を築いて風紀の改善に努めるとともに、殖産興業の推進を図った。また、日本人もアイヌも身分・出身を問わずに公平に扱った。

 

彼自身もアイヌの住民から貰ったという「アツシ」と呼ばれる衣装を大切に身に着けていた。これは彼自身が庄内藩時代にこの地で過ごし、また戊辰戦争で「朝敵」として苦しい立場に立たされた事に由来していると考えられている。このため、アイヌからも「アツシ判官」と称されて敬意を払われたという。・・黒田は和人と雇用関係にあり漁業などに従事していた樺太アイヌを北海道に移住させて、北海道内陸部の農業開拓に従事させようと計画した。だが、松本は彼らの生活環境の維持を優先して樺太に近い北見国宗谷郡で本来の生業である漁業に従事させる事を主張して激しく対立する。

 

だが、翌年松本を無視した黒田によって、アイヌたちは対雁への移住を余儀なくされる。その結果、慣れない生活と疫病の流行によって多くの樺太アイヌが死亡する事となった。アイヌもまた人間であると考えていた松本は憤慨の余りに辞表を提出して7月に北海道を去って故郷鶴岡に帰郷する。以後、松本は故郷にて一介の農民として生涯を送った』。松本十郎は、現場仕事を担う開拓民やアイヌの人たちを直接監督する役割でした。新政府軍と徳川幕府軍の戦いである戊辰戦争で敗れた幕府軍の勢力でしたが、明治新政府の官僚に就きました。

 

戊辰戦争は、若い兵士や市民が犠牲になった新政府軍と徳川幕府軍の上層部が手を組んだ松取り工作でした。北海道開拓は、多くのアイヌを犠牲にした松取り工作が成されていました。樺太アイヌを強制移住させたのも松工作のためです。松本十郎は、樺太アイヌを強制移住させた黒田清隆に反対したのは、アイヌを犠牲にした松工作の真実を知っていたからだと感じます。松本十郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「サンカ」と伝えられました。やはり松本十郎は、現場工作員の役割を担っていました。個人的には八咫烏の純粋なサンカの役割だったと感じます。(つづく)