明治時代の初期、開拓大判官の松本十郎の下で現在の桑園の地を開墾した元武士の人たちの出身である庄内藩(しょうないはん・現山形県)について追っていきました。庄内藩の情報はwikiに記載されています。『庄内藩または荘内藩は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩。譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩と改称した。藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置いた。支藩に大山藩・松山藩がある。
転封の多い譜代大名にあって、庄内藩酒井氏は転封の危機に晒されはしたものの、江戸幕府による転封が一度もなかった数少ない譜代大名の一つである。庄内藩は、藩史に見られるように藩主・家臣・領民の結束が極めて固い。たとえば、天保期に起きた三方領地替えでは領民による転封反対運動(天保義民事件)によって幕命を撤回させている。また、幕末の戊辰戦争では庄内藩全軍の半数近くにおよぶ約2,000人の農民・町民が兵に志願し、戦闘で300人以上の死傷者を出しながらも最後まで勇戦した。
その他、敗戦後に明治政府から藩主酒井忠宝へ移転の処罰が下されたさいには、家臣領民を上げて30万両の献金を集め明治政府に納めることで藩主を領内に呼び戻している。現代でも酒井宗家は庄内に居住しており、当主は殿と呼ばれることすらある。これら一連の藩主擁護活動は本間光丘による藩政改革に端を発している。この藩政改革以後、領民を手厚く保護する政策が基本姿勢となり歴代藩主はこれを踏襲したため、領民たちは藩主への支持を厚くしていき、藩の危機においては士民一丸となって協力する体制が出来上がっていった。
歴代藩主では、幕府老中となった酒井忠寄と、戊辰戦争を戦った酒井忠篤が有名である』。開拓大判官の松本十郎が支配層・八咫烏の現場工作員のサンカの役割であったように、庄内藩の人たちも、同様にサンカの役割を担っていたと感じます。サンカのルーツの1つが、渡来人に襲撃され支配下に置かれて仲間の松取りを強制された先住民の人たちです。ヒプノセラピー記事《「魂に刻まれた真実が蘇る」》では、クライアントの方が渡来人に襲撃された先住民の過去世の場面を思い出して、その様子を伝えました。
『美由紀さんが思い出した前世の場面は、島根県の出雲国で起きた出来事でした。平和に暮らしていた村人たちが、突然、襲撃されたのです。「強い人たち」は、渡来人を中心とした集団だと感じます。ヤマト王権の下で、日本各地を支配下に置くためのものでした。東北地方の蝦夷(えみし)、九州の熊襲(くまそ)などの先住民たちを襲撃して、その土地を支配して行きました。日本武尊(やまとたける)など、ヒーローによる勧善懲悪の美談の神話を創作して行ったのです』。東北の地は、シリウスの光と繋がった先住民の地域です。特に、現在の山形の地は、純粋な光の場所でした。
《山形 湯殿山神社 ~巡礼の旅(266)~》には、2015年5月に行った山形県鶴岡市にある羽黒山を封印する役目の出羽神社の遠隔ワークについて記しています。出羽神社に光を降ろすと「光が入った。ここが日本だと誰かが伝えて来た」と伝えられました。太古の昔、羽黒山などの山形の地が日本の中心だったのです。それは、光の時代の先住民の中心地だと感じます。純粋な光の地である故に、深い闇に変えられてきました。純粋な人ほど汚れた闇に染まってしまいます。現在の山形県鶴岡市にあった庄内藩は、まさに、深い闇に変えられてきた実例だと捉えています。
庄内藩には、藩庁の鶴ヶ岡城と枝城として酒田市の亀ヶ崎城があったことから、八咫烏の鶴派と亀派の両方を担っていた同和派の役割だったとも感じます。庄内藩の藩主・酒井氏は、江戸幕府による転封が一度もなかった数少ない譜代大名の一つだったのは、支配層にとって汚れ仕事を成す下働きのサンカ集団として有益だったからだと思います。庄内藩の藩主・酒井氏について、初代から現当主まで5人をワーク対象に選びました。庄内藩の歴代藩主の情報は、wikiに記載されています。庄内藩の初代藩主は、酒井忠勝(さかいただかつ・1594年-1647年)です。
酒井忠勝の経歴はwikiによると『酒井忠勝は、江戸時代初期の大名。越後高田藩主、信濃松代藩主を経て、出羽庄内藩の初代藩主。酒井左衛門尉家第7代当主』とあります。庄内藩の初代藩主・酒井忠勝の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「普通の武士」と伝えられました。初代藩主は、ごく普通の武士だったようです。次に着目したのは、戊辰戦争で新政府軍に敗れた庄内藩藩主の酒井忠篤(さかいただずみ・1853年-1815年)です。経歴は、wikiによると『酒井忠篤は、江戸末期の大名。明治時代から大正時代にかけての日本の華族、陸軍軍人。
華族としての爵位は伯爵、軍人としての最終階級は陸軍中尉。酒井左衛門尉家17代当主として出羽庄内藩の第11代藩主となったが、明治元年に王師に抗したため蟄居・改易となったが、弟・忠宝が家名再興を許され最後の藩主となった。明治13年(1880年)に弟に家督を譲られて19代当主となり、華族の伯爵に列する』と記されています。酒井忠篤は、戊辰戦争の時に、実質的には西郷隆盛と組んでいたと感じます。戊辰戦争は、徳川幕府軍と新政府軍の上層部が手を握った松取り工作です。庄内藩の第11代藩主・酒井忠篤の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS」と伝えられました。
やはりエゴの闇で汚れた工作員の役割を担っていたようです。庄内藩の最後の藩主は、酒井忠宝(さかいただみち・1856年-1921年)です。経歴はwikiによると、『酒井忠宝は、江戸末期の大名、明治から大正期の日本の華族。位階は従三位。第9代出羽庄内藩主酒井忠発の六男で、兄忠篤の蟄居後に酒井佐衛門尉家第18代当主となり、会津藩主、磐城平藩主を経て、庄内藩(大泉藩と改称)の藩主・知藩事を務めた。正室は遠藤胤城の娘』と記されています。庄内藩の第12代藩主・酒井忠宝の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS」と伝えられました。先代と同様に、支配層のエゴの闇の工作員の役割のようです。(つづく)