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明治時代の初期、開拓大判官の松本十郎をはじめとする庄内藩の元武士の人たちが開墾して桑畑にした札幌市中央区桑園地区において、光を降ろすべくワークポイントを探していきました。実際には、目印は地上の建物や施設ですが、その本質は、地上ではなく地下が重要になります。地球の地上を闇にするために地下・地底の洞窟が闇に変えられてきました。岩から水が染み出る鍾乳洞のイメージの地底世界が存在しています。本来は、目に見えない光の精霊が多く存在する地底でしたが、光の精霊が闇に変えられてきました。

 

今は、多くの地下が、生贄や松取りなど命を犠牲にした金儲けなどの人間のエゴの闇で、深い闇に変えられてしまっています。こうした闇の地底を本来の姿に戻すために純粋な祈りによって光を降ろして闇の精霊を光に戻していくのです。まず、桑園-wikiに記載されている「宮部記念緑地」「桑園延命地蔵尊」をピックアップしました。宮部記念緑地については、wikiの「大学村」の項目に記されています。『北6条西12丁目のあたりは、かつて北海道大学の教授たちが居を構えていたことから、通称「大学村」や「桑園博士町」と呼ばれている。

 

1909(明治42)12月に時任一彦農学部教授が移り住んだのを初めとし、宮部金吾(みやべきんご)など多いときには十数名の教授たちが集っていた。彼らは1912(大正元年)12月から毎月「村会」という集まりを設け、途中で隔月に変更しつつも1995(平成7)秋に至るまで共同体を維持していた。教授たちが建てた文化住宅の街並みはさっぽろ・ふるさと文化百選のNo.76に選定されているが、選定時には6棟あった住宅も1998(平成10)の時点で2棟にまで減少。周辺にはマンションが建ち並び、往時の雰囲気をうかがい知ることはもはやできない。

 

宮部金吾の邸宅跡は、1991(平成3)に整備されて「宮部記念緑地」となっている』。基本的に大学教授などの教師は、支配層の工作員の役割を担っていたと捉えています。宮部金吾の経歴はwikiに記されています。『宮部金吾(1860-1951)は、現・東京都台東区下谷出身の植物学者。北海道帝国大学名誉教授。札幌市名誉市民。札幌農学校(現在の北海道大学)第二期卒業生。[生い立ち]生家が探検家松浦武四郎の住居に近く、松浦から蝦夷地(北海道)のことを聞かされていたことが北海道へ向かう動機になったといわれる。

 

明治7年に東京外国語学校に入学し、後年土木工学者となる広井勇と同期生として学ぶ。広井とはのちに札幌農学校でも同期生となる』。東京都台東区下谷は、不忍池などがある水の場所であり、多くのサンカ工作員が暮らす場所です。宮部金吾は、工作員の家系に生まれたと感じます。また、植物学者であることは、自然の光である精霊を封印する役割だったと理解しています。宮部金吾の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「アーク」と伝えられました。宮部金吾が晩年を過ごした住宅跡は、現在、宮部記念緑地として公園となっています。

 

宮部記念緑地の所在地(北海道札幌市中央区北6条西13丁目7-1)に地下の闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。また、宮部金吾は、北海道大学植物園(札幌植物園)の設立に尽力し、初代園長を務めました。北海道大学植物園には、宮部金吾記念館が設置されています。wikiによると、『北海道大学植物園は、北海道大学が運営する大学植物園・大学博物館である。札幌農学校時代の1886年に開園した。植物学の教育・研究を目的に設置され、絶滅危惧植物の保全にも取り組む一方、広く一般にも開放されている』と記されています。

 

札幌植物園は、アイヌがメムと呼ぶ湧水地である場所であり、本来は、先住民が暮らしていた光の地でした。先住民のやまとびとがアイヌに襲撃され、アイヌが和人に襲われて松取りが成された闇の場所に変わっています。20178月に、札幌植物園に足を運んで、現地でエネルギーワーくを行っています。その時のワークの内容が《北海道 札幌植物園 ~巡礼の旅(435)~》に記載されています。概要には『札幌植物園には光の時代の真実が隠されていた。光のやまとびとがアイヌに征服され、アイヌが和人という渡来人に征服された。

 

光の地を封じるために、虐殺と隠蔽が繰り返されて来た。札幌は、光の場所であるが故に、上空に幾つもの闇の渦巻きが置かれていると分かった』とあります。桑園の開拓以前から水の場所が暗闇にされてきた歴史があるのです。再度、遠隔で、札幌植物園所在地(北海道札幌市中央区 北3条西8丁目)に地下の闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。「桑園延命地蔵尊」の情報はwikiに記されています。『石山通が函館本線と交差する地点は、高架化以前には絶えず人身事故が起きていた。

 

人々から「魔の踏切」と呼ばれていた。そこで1927(昭和2)、市民の寄付によって高さ5メートルを超える大きさの「桑園延命地蔵尊」が建立された。線路の高架化によって事故の心配が無くなった。地元有志が集う桑園延命地蔵尊保存会により、毎年724日には慰霊祭が執り行われている』。桑園の地は、北海道開拓時代の松工作の開墾やそれ以前から人命が失われて来た場所なので、闇の状態の亡くなった魂が留まった深い闇の地になっていました。闇の場所から闇のエネルギーが放たれて、事故や事件などの闇の事象が起こります。

 

こうした闇の事象が生じる場所には、亡くなった人の魂が重たい闇となって留まっている場合が多いです。純粋な祈りを通して光を降ろして、重たい闇の状態の魂を上げることが重要です。それは、その土地の闇の精霊を光に変えることでもあります。当該場所については、地蔵尊を置いたので事故が無くなったのではなく、線路の高架化することで人身事故が無くなったのです。桑園延命地蔵尊所在地(北海道札幌市中央区北6条西10丁目5-1)の地下の闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。(つづく)