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松崎町のなまこ壁の蔵の1つが「近藤平三郎(こんどうへいざぶろう)」の生家でした。wikiには、なまこ壁の画像が掲載されており、『近藤平三郎生家/壁の全面が生子壁になっている。明治初期、設計・施工。静岡県松崎町所在』と記されています。近藤平三郎を追跡することにしました。近藤平三郎は、松崎町出身の薬学者です。経歴の詳細はwikiにあります。『近藤平三郎(1877-1963)は、現在の静岡県賀茂郡松崎町出身の薬剤師、薬学者(薬化学)。勲等は文化勲章。学位は薬学博士。日本学士院会員。陸軍薬剤官、塩野義商店顧問、乙卯研究所所長、東京帝国大学教授、日本薬学会会頭、日本薬剤師会会長などを歴任した。

 

[来歴]〈生い立ち〉にて生まれた。本郷のドイツ語学校から東京帝国大学医科薬学科に進み、長井長義に師事。帝大卒業後は大学に籍を置きながらも陸軍薬剤官として入隊し、日露戦争に薬剤師として従軍。陸軍医学校教官を経て、ベルリン工科大学に留学して有機化学を専攻した。〈薬学者として〉1911年に帰国すると塩野義商店の塩野長次郎の懇請を受け、塩野義商店顧問に就任。この関係が発展して1915年には塩野の援助によって乙卯研究所を東京市に設立して所長となると共に、東京帝国大学教授にも就任した。以降はアルカロイド関係の薬剤開発に専心し、1928年学士院賞を受賞。

 

日本薬学会会頭、日本薬剤師会会長を歴任した。1953年日本学士院会員。1958年文化勲章受章』。近藤平三郎は、東京帝国大学医科薬学科で長井長義に師事しています。《覚醒剤のメタンフェタミンを合成した薬学者・長井長義がドイツ人の師と妻から引継いだドルイドの生贄の闇》にありますが、長井長義は、メタンフェタミンの原料のエフェドリンの発見者でメタンフェタミンの合成者です。支配層における生贄・松取りが絡む麻薬に関係していたと見ています。近藤平三郎は、アルカロイド関係の薬剤開発に専心していたといいますが、ケシの実からアヘンが採取され、アヘンを精製してモルヒネが得られます。

 

モルヒネをさらに精製したのがヘロインです。アルカロイド-Wikipediaには、『単一のアルカロイドとして初めて単離された物質は、ケシ(Papaver somniferum)から抽出されたモルヒネである(1804)』と記されています。《あへん系麻薬【モルヒネ】【ヘロイン】》には、『モルヒネ:アヘンから生成される麻薬性鎮痛薬。 依存性が高く日本では麻薬に指定されている。 ケシから採取されたアヘンより生成されるアルカロイドの一種』とあります。また、近藤平三郎は、陸軍薬剤官として従軍しており、日本陸軍ゆえの松工作に関わっていたと感じます。近藤平三郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「創価」と伝えられました。

 

近藤平三郎は、薬学研究者ですが、裏で支配層の薬・松利権に絡む創価の工作員の役割だったと推察します。実は、近藤平三郎の父親の近藤平八郎は、薬舗(薬局)を営む近藤家の養子になった人物です。《近藤平八郎 | 松崎町》には、近藤平八郎のプロフィールが記載されています。『平八郎は、安政4年岩地の高橋家に生まれ、幼い頃松崎村中宿の江戸元禄期から続く薬舗「大阪屋」(近藤家)の八代当主になるべく養子として入籍した。大阪屋には平八郎と夫婦となる養女(れん)がいて、兄弟のように育てられ、成人して夫婦になった。平八郎は三余塾に入門し、土屋三余の薫陶を受け、その後東京帝国大学医学部別科に入学し薬学を学んだ。・・

 

平八郎は三余塾で受けた教育の教えの影響で、子供たちの躾は厳しくも教育には熱心だった。子供が小学生の頃から松崎学校の校長に個別指導を依頼、特に長男は校長住宅に泊まり込んで勉学に励んだ。4人の息子を帝国大学に入学させ、十分すぎるほどの学資を送金した。特に東京帝国大学に入学した2人の息子には、学校付近に家を新築、女中をつけて息子達の世話をさせた。長男の平三郎が東大の優等生で恩賜の銀時計を拝領したことを祝って、自宅に近隣の名士を招いて祝賀会を催すほどだった。・・依田善吾と協力して松崎汽船会社を設立、東京まで汽船を運航させたり、松崎銀行の重役に就任、松崎学校の学務委員として児童就学を促進した。

 

また、松崎、南伊豆間の往還開通の委員代表として尽力した。北海道開発事業の晩成社株主、地域の発展振興を目的とした「豆南社」の創始メンバーの一人として、教育、交通、土木等の発展を話し合い企画した』。近藤平三郎の父・近藤平八郎は薬局を経営しながら4人の子供を帝国大学に進学させる豊かな経済力があった裏には、支配層の薬・松利権を有していたのだと感じます。近藤平三郎の父親・近藤平八郎(1857-1944)と近藤平八郎が学んだ三余塾の師で松崎町の三聖人の1人の土屋三余(1815- 1866)の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「創価」「術師」と伝えられました。

 

近藤平三郎の父・近藤平八郎も創価工作員の役割を担っていたようです。近藤平三郎が所長を務めた「乙卯(いつう)研究所」が気になり、調査とワークを進めました。乙卯研究所の情報は、公式サイトの《理事長挨拶》に記載されています。『今から100年ほど前の1915(大正4)に、当時の東京帝国大学薬学科の近藤平三郎先生が、塩野製薬所(塩野義製薬の前身)の二代目塩野義三郎から顧問として依頼された研究を行うための施設を現在の東京都港区芝につくったというのが乙卯研究所の始まりです。1938(昭和13)に財団法人になり、戦中、戦後と薬学研究を続けました。

 

1966(昭和41)に世田谷区玉川に移転した頃は天然有機化合物の全合成を通じて薬学や有機化学分野に貢献してきました。その後、ここ20年余りは創薬を目指して研究を進めてまいりましたが、創薬に必要な研究期間に長時間を要し、開発費用も増大してきました。そこで2012(平成24)に公益財団法人に移行したころから、理事、評議員、有識者の方々に相談しながら今後の研究所のあり方を考えてまいりました。近年、多くの財団が自主研究をやめて研究助成財団に変更していく中、我が国の有機化学のレベルをより高めることで薬学の分野に貢献するためには、ウエットラボの継続が必要であるという結論に達しました。

 

そこで2015(平成27)に創立100周年を機に、ロケーションも新たにかながわサイエンスパークに移り、現在の研究所として船出いたしました。アドバイザリーボードの先生方をはじめ、多くの先生方のご指導とご鞭撻、そして温かいご支援を賜りながら、1人でも多くの若い研究者に新しい発想で3年、5年と研鑽を積んでもらいたいと思います。そうすることで日本の有機化学を基礎とする薬学の進歩発展に貢献していきたいと考えております。乙卯研究所 理事長 塩野元三』。乙卯研究所が、過去に東京都世田谷区玉川にあったことに驚きました。

 

乙卯研究所は、二代目塩野義三郎から依頼された近藤平三郎が設立した支配層の薬・松関連施設だと推測しています。《東京世田谷の地下に封じられた龍の解放と日本列島の巨大龍の起動》にありますが、ヒプノセラピーで東京世田谷区の砧(きぬた)公園が重たい闇の秘密機関がある重要な場所だと伝えられていました。東京都世田谷区玉川の乙卯研究所の場所をグーグルマップで調べると、砧公園の南東約1.5kmの場所でした。やはり、東京世田谷区にある砧公園周辺には、支配層の松関連の地下施設が置かれていたと感じます。東京世田谷区は、日本の支配層の松利権の一大地下拠点だったと見ています。

 

乙卯研究所の代表理事(理事長)塩野元三(塩野義製薬創業家出身で同社の元代表取締役社長)、代表理事(所長)大谷光昭(塩野義製薬の元取締役)本部所在地(神奈川県川崎市高津区坂戸3-2-1 かながわサイエンスパークR&DC1232)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「創価」「カエル」「いいです」と伝えられました。乙卯研究所の理事長は、創価工作員の役割でした。所長に憑いていたカエルは、アークの配下の兵隊としてのカエルの宇宙人を指します。最近のヒプノセラピーからカエルの宇宙人は、サンカの人間をサポートして、術を使って金儲けを成す役割だったことも分かっています。(つづく)