Chohachi_Matsuzaki_Shizuoka_Japan


松崎町の有名な史跡には、「長八記念館」「長八美術館」があります。「長八」とは、こてと漆喰の名人である「入江長八(いりえちょうはち)」のことです。入江長八について追跡しました。入江長八の経歴はwikiに記されています。『入江長八(1815-1889)は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した名工(左官職人)、工芸家。なまこ壁、鏝絵といった漆喰細工を得意とした。代表作は、旧岩科(いわしな)学校校舎の二階和室の「鶴の間」にある「千羽鶴図」(重要文化財)。[経歴]文化12(1815)、伊豆国松崎村明地(現在の静岡県賀茂郡松崎町)に貧しい農家の長男として生まれた。

 

6歳で菩提寺の浄感寺塾に学ぶ。11歳のとき同村の左官棟梁、関仁助のもとに弟子入りする。その当時から手先の器用さで知られた。天保4(1833)江戸へ出る。御用絵師である谷文晁の高弟狩野派の喜多武清(きたぶせい)から絵を学ぶ一方で、彫刻も学んだ。絵画や彫刻技法を漆喰細工に応用し、従来は建物の外観を装飾する目的で漆喰壁に鏝(こて)で模様を描いていたものを、絵具で彩色して室内観賞用の芸術品に昇華させた。一方で、天保11(1840)には旅芸人の一座に加わっていた。天保12(1841)、江戸日本橋茅場町にあった薬師堂の御拝柱の左右に「昇り竜」と「下り竜」を造り上げて、名工として名を馳せた。

 

弘化2(1845)31歳の時に弟子2人を連れて生まれ故郷の浄感寺の再建に関わり、鏝絵を作成している。天井に描いた「八方にらみの竜」は傑作とされる。(2007年現在、浄感寺の本堂は長八記念館となっている)入江は江戸に戻り、東京都台東区の浅草寺観音堂、目黒区の祐天寺などを含む多くの場所で傑作を作り上げたと言われている。明治10(1877)に第1回内国勧業博覧会に出品。晩年、明治13(1880)にも65歳で故郷を訪れ、岩科町役場や岩科学校などで制作作業を行っている。明治22(1889)108日、深川八名川町(現江東区深川)の自宅で死去。享年75歳。

 

墓は故郷の浄感寺と浅草正定寺の2箇所に設けられている。山光荘をモデルにしたつげ義春の漫画「長八の宿」によって、知名度があがった。[現存する作品]鑑賞に拡大鏡が必要であるほど緻密な細工をこらした作品が多い。入江の生活拠点が江戸であったため、作品は東京地区に集中しており、大半が震災や戦災で焼失してしまっている。現存する約45点は、東京都港区高輪の泉岳寺、品川区東品川の寄木神社、足立区の橋戸稲荷、千葉県の成田山新勝寺、静岡県沼津市戸田の松城家住宅などに残っている。故郷の静岡県松崎町には37点の作品が、1986年に開館した「伊豆の長八美術館」に約50点が展示されている。

 

また重要文化財の岩科学校や、春城院、三島市の龍沢寺など故郷周辺に点在している』。経歴から入江長八は、神社仏閣で仕事をしていたことが分かります。神社仏閣は、古くからの支配層の松工作拠点です。表と裏の仕事を持っていた宮大工と同様なサンカ工作員だと感じました。入江長八の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「サンカ。同和」と伝えられました。やはり、サンカの役割のようです。また、入江長八に所縁のある史跡の伊豆の長八美術館所在地(静岡県賀茂郡松崎町松崎23)長八記念館所在地(静岡県賀茂郡松崎町松崎234-1)に闇の解除・統合を意図して光を降ろしました。

 

いずれも「いいです」と伝えられました。松崎町-wikiの「名所・旧跡・観光スポット」の《史跡》に掲載されている、名所を中心に調査で選んだポイントに光を降ろしていきました。伊豆文邸所在地(静岡県賀茂郡松崎町松崎250-1)岩科学校所在地(静岡県賀茂郡松崎町岩科北側442)中瀬邸所在地(静岡県賀茂郡松崎町松崎315-1)旧依田邸所在地(静岡県賀茂郡松崎町大澤153)室岩洞所在地(静岡県賀茂郡松崎町道部371)富貴野山宝蔵院石仏群所在地(静岡県賀茂郡松崎町門野173)に順番に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと、いずれも「いいです」と伝えられました。

 

次に、松崎町の山・川をピックアップして光を降ろしていきました。山を封印する役目の寺社も同時にワークを行いました。長九郎山(996m)所在地(静岡県賀茂郡西伊豆町大沢里)臨済宗建長寺派婆娑羅山報本寺所在地(静岡県下田市加増野433-1)婆娑羅山(ばさらやま・608m)所在地(静岡県下田市加増野)烏帽子山(162m)所在地(静岡県賀茂郡松崎町雲見)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと、いずれも「いいです」と伝えられました。闇の解除・統合を意図して光を降ろすワークの際に特別なコメントがあったのが、猿山所在地(静岡県賀茂郡西伊豆町大沢里)高野山(たかのさん)所在地(静岡県賀茂郡松崎町小杉原)です。

 

猿山は「火の所」、高野山は「カエルの場所」と伝えられました。高野山のグーグルマップには、黄色のカエルの画像が掲載されていたのです。黄色のカエルは初めて見ました。過去のヒプノセラピーからカエルは、アークの配下のカエルの宇宙人に繋がり、松の現場工作のサンカをサポートしていることが分かっています。黄色のカエルの「黄色」は、隠す闇の工作を意味します。それ故に、黄色のカエルは、工作の役目のカエルの宇宙人を示唆します。高野山の情報は《高野山(たかのさん) | 松崎町》に記されています。『高野山(たかのさん) 岩科川上流にある八木山という集落は、かつて山を焼いて開拓したために、〝焼山〟と呼ばれていました。

 

その集落から山間へ3kmほど入ると、渓流に面して奇岩の絶壁がそそり立ち、知られざる静寂境があります。ここを高野山といい、その昔、真言密教の修験者の行場だったところで、たくさんの石仏がたたずんでいます。〈本尊〉弘法大師 〈石仏の宝庫〉高野山は西伊豆では松崎町門野の富貴野山宝蔵院に次ぐ石仏の宝庫と言われています。数では宝蔵院に及びませんが、多種多様の点では高野山が勝っています。〈名僧にまつわる伝説の地〉かつては弘法大師もここを訪れたが、近くの農地から肥料の臭いが漂ってきて不浄なこと、谷の深さが物足りないことを理由に立ち去り、やがて紀州(和歌山県)へ行って高野山を開いた─という伝説さえ残されています。

 

そのいい伝えを裏づけるように、絶壁の中腹の行場「閻魔真行」には、弘法大師像をまつってありましたが、現在では八木山の永禅寺に移し安置されています。さらに幕末のころ、諦然という僧がこの「閻魔真行」で修行、近在を祈祷して歩いたが、霊験のあらたかなことが評判となり、お大師さまと呼ばれて敬われ、信者の数は200人に及んだとか。そして、この地を立ち去るとき、経典や法衣などを地元の田口家へ記念として残していった。同家には、「諦然が三河(愛知県)の人であること、天保元年(1830)に当地を訪れて弘法大師尊像をまつり、およそ1年間参籠し、多くの信者が集まってきたこと…」を記した箱書きもある。

 

また一説によると、建久年間(11901199)には文覚上人もここで参籠したといわれ、修行を終えて立ち去ろうとしたところ、上人の衣に野バラがからみついて離れられなくなった。そこで上人は再び岩窟の中に篭って行を続けたという。それ以来、地元の人々は野バラのことを〝文覚バラ〟と呼んでいるそうである』。高野山は、弘法大師や文覚上人の僧侶が訪れた場所で、多くの石仏があり、黄色のカエルが生息していることから、古くから隠された松取り場所だったと感じます。黄色のカエルは、サンカ工作員を示唆しており、松崎の地で北海道十勝に渡った依田勉三のように、多くのサンカ工作員を養成・輩出したと見ています。

 

松崎町の川として、那賀川(なががわ)と岩科川(いわしながわ)を選びました。那賀川の情報は《那賀川水の基本情報|しずおか河川ナビゲーション》にあります。『那賀川は、稲生沢川流域及び河津川流域との分水嶺である大鍋越に源を発し、途中、明伏川や船田川などを合流しながら松崎町をほぼ真西に貫き、町の中心部を二分した後、最大支川の岩科川を合流して松崎港(駿河湾)へ流入する流域面積約72.63km2、指定区間延長10.55kmの二級河川である』。那賀川岩科川の各々の源流・全体を意図して光を降ろすと、共に「いいです」と伝えられました。(つづく)