創価の闇の中心である「伊豆」の静岡県賀茂郡松崎町の調査とワークを終えて、島根県の「出雲」関連の調査とワークに移りました。2024年12月の光の講座の中の簡易ヒプノセラピーで、日本の龍体を解放するには、封印されている「出雲」と「伊豆」を開く必要がある旨を伝えられました。《伊豆と出雲の地が開くと奴奈川姫の龍体が動く》の概要は、『奴奈川姫は日本の中心に近い。龍体が動かない。足が弱くなる。腰から下が動けない。奴奈川姫が動けないのは出雲と伊豆の土地が閉じている。伊豆は、まだ弱い。
出雲はシリウスの中心地。奴奈川姫の龍体が動くには伊豆と出雲が開く。三角形になる。統合すべきものは黒姫。母親から来ている。黒姫は精霊。大国主の前から出雲の影響が大きい』です。「出雲」の象徴的存在として「出雲大社」を選びました。過去のヒプノセラピーでは、「シリウスの闇の中心は出雲大社」とも伝えられていました。シリウスの存在は、術に長けており、人を遠隔操作して操り支配する闇の仕事を担っています。シリウスの闇は、プレアデスの闇と比べると、地球の闇の仕組の土台の役目となります。
地球の闇は、「分離と支配」から構成され、プレアデスの分離の闇に対して、シリウスは支配の闇を担っています。「出雲」の関連では、まず、象徴的な「出雲大社」からスタートすることにしました。出雲大社には、2014年11月に巡礼の旅で、現地を訪れており、闇の解除・統合の祈りのワークを行っています。《島根 出雲大社 ~巡礼の旅(168)~》の記事にワークの詳細が記されています。概要には、『「長い間、脈々と作り上げてきたのだ」と伝えて来た闇のエネルギー体が虹の龍神のサポートの下で光に強制送還された。
大国主命が「真の国造りなり」と伝えて来た、出雲大社の鎮守社での浄化と解除』とあります。出雲大社に潜んでいたシリウスの闇のエネルギー体が伝えて来た「長い間、脈々と作り上げてきたのだ」というメッセージが印象的です。「脈々」のワードは、大阪・関西万博の公式キャラクター「ミャクミャク」に重なります。ミャクミャクは、5つの眼球やその周囲に細胞に似た形の輪がついているなど、怪異な化けもの的キャラクターデザインが特徴です。これは、赤色(血液)、腸(松取り)、目玉(支配・金)、水色(金春色=エゴ)を暗示しています。
シリウスの闇の存在が言ったように、血縁・松取り・金・エゴが絡んだ支配の暗闇の世界を脈々と構築して来たと推察します。出雲大社の情報はwikiに記されています。『出雲大社は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は大国主大神。式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社。神社本庁の別表神社。宗教法人出雲大社教の宗祠。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。[歴史]出雲大社はいわゆる神話における国譲りの事情のもとで創建された神社である。867年(貞観9年)には正二位に叙せられ熊野大社とは別に出雲国一宮と称せられるようになった。
中世には12郷7浦を領したが、豊臣秀吉により減じられ5郷2浦となった。1871年(明治4年)に官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった。[創建]出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。・大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った(「古事記」)。
・高皇産霊尊(たかむすびのかみ)は国譲りに応じた大己貴命に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた(「日本書紀」)。・所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ=大国主神)の宮を奉るため、皇神らが集って宮を築いた(「出雲国風土記」出雲郡杵築郷)。・神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた(「出雲国風土記」楯縫郡)。
・垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖(おし)であった。占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた(「古事記」)。・659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた(「日本書紀」)。以上のように、伝承の内容や大社の呼び名は様々である。共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということである。
その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている』。出雲大社の現・宮司(84代国造)は、「千家尊祐(せんげたかまさ)」です。千家尊祐の経歴はwikiに記載されています。『千家尊祐(1943年-)は、日本の神職。出雲大社宮司。第84代出雲国造。國學院大學文学部神道学科卒業。島根県出雲市出身。[経歴]出雲大社宮司である千家尊祀の長男として生まれる。初名は興麿(おきまろ)。國學院大學文学部神道学科卒業。
太宰府天満宮の権禰宜を経て1970年(昭和45年)に出雲大社の禰宜となる。1982年(昭和57年)12月15日、出雲大社に権宮司となり、翌年の1983年(昭和58年)12月に尊祐と改名した。その年の大晦日に出雲大社教の総監に就任し、1999年(平成11年)3月に大社国学館の館長に就任。2002年(平成14年)4月18日に出雲大社の宮司(第84代出雲国造)に就任。また2005年(平成17年)4月から2011年(平成23年)3月までは島根県神社庁の庁長を務めた』。出雲大社の宮司・千家尊祐と所在地(島根県出雲市大社町杵築東195)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金」「いいです」と伝えられました。(つづく)