Haiden_of_Izumo-taisha-1


出雲大社の祭祀者の出雲国造家は、千家家(出雲大社教)と北島家(出雲教)2つに分裂しています。出雲大社-wikiの《千家家と北島家》に詳細があります。『出雲大社の祭祀者である出雲国造家は、南北朝時代の康永年間に千家家と北島家の2家に分裂した。その祭事は幕末までは両家が二分して行っていたが、明治以降は千家家が執り行っている。〈千家家(出雲大社教)1872(明治5)に出雲大社宮司の千家尊福が出雲大社崇敬講社を結成。1882(明治15)に政府の方針で神職教導職の兼務が認められなくなったため、千家尊福は宮司職を弟の千家尊紀に譲って教化活動に専念。

 

出雲大社教院は出雲大社そのものから分離して教派神道の一つとなった。第二次世界大戦後、神社が国の管理を離れたことから再び出雲大社と密着する形に至った。〈北島家(出雲教)1872(明治5)に北島脩孝が千家尊福とともに出雲大社崇敬講社を結成。1882(明治15)に出雲教会を設立した。第二次世界大戦後、1952年に宗教法人法に基づく独立した宗教法人出雲教となった。以上のように大国主大神を主祭神とする宗教団体として、千家家が出雲大社教、北島家が出雲教を主宰している。1951(昭和26)4月に出雲大社と教派神道の宗教法人出雲大社教は一体化された。

 

出雲大社の職員は出雲大社教の職員を兼務し、出雲大社宮司は出雲国造として出雲大社教を総攬し、出雲大社教の教務本庁は出雲大社の教務部として活動している』。出雲大社の祭祀者の出雲国造家が千家家(出雲大社教)と北島家(出雲教)2つに分裂した経緯は《出雲國造家の分立》に記されています。『始祖天穂日命以来、第54世孝時國造まで出雲國造家は一統で続いてきました。時あたかも南北朝時代に及び、時代の風潮もあってか、第55世清孝國造の後をめぐって兄弟の間に争いが生じ、以後北島・千家と分立することになった』。南北朝時代に、出雲国造家の跡目争いで分裂したようです。

 

出雲大社教(いずもおおやしろきょう)は、1882(明治15)、当時の出雲大社前大宮司・第八十代出雲國造・千家尊福(せんげたかとみ)が創設した教団であり、教派神道(神道十三派)の一つです。出雲大社教の設立者/初代管長の千家尊福の経歴はwikiに記されています。『千家尊福(1845-1918)は、出雲国(現・島根県)出身の宗教家、政治家。80代出雲国造、出雲大社宮司。神道大社教(1946年出雲大社教に改称)創立者で初代管長、元老院議官、貴族院議員、埼玉県知事(4)、静岡県知事(4)、東京府知事(17)、司法大臣(14)、東京鉄道株式会社社長などを歴任した。

 

位階は従二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。[概要]出雲大社の宮司を務める出雲国造家に生まれ、神道大社派を創始する。その後、神道大社教に改称し管長に就任するなど、教派神道たる出雲大社教の礎を築いた。元老院議官を経て、第1回貴族院男爵議員選挙にて貴族院議員に選出される。以来、連続4期に渡り貴族院議員を務めた。院内においては、木曜会を旗揚げするなど、精力的に活動した。また、埼玉県知事、静岡県知事、東京府知事を歴任したのち、第1次西園寺内閣にて司法大臣に就任した』。出雲大社教の設立者/初代管長の千家尊福の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「半島。李家」と伝えられました。

 

朝鮮半島経由の渡来人系・李王家の系統を継ぐ工作員の役割だったようです。出雲大社教の現管長は、出雲大社宮司である千家尊祐(せんげたかまさ)です。出雲大社教の現管長・千家尊祐(出雲大社宮司)については、《大阪万博のミャクミャクと重なる血・松・金・エゴが絡む支配の暗闇を脈々と構築した出雲大社の闇の存在》のワークで、既に光を降ろしており「金」と伝えられています。出雲大社教の教務本庁所在地(島根県出雲市大社町杵築東195(出雲大社境内「おくにがえり会館」1))に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。

 

出雲教(いずもきょう)は、1882(明治15)76代出雲国造・北島脩孝(当時の出雲大社少宮司)が内務省の承認を経て、創設した神道教団です。総本院は、島根県出雲市大社町杵築東194(出雲大社北島国造館)に所在しており、出雲大社に祀られている大国主大神の神意、信徳を教化する神社神道です。出雲教の創設者/初代教長は、北島脩孝(きたじまながのり・第76代国造)です。wikiには『天穂日命を教祖として、初代教長は第76代国造・北島脩孝(きたじまながのり)であり、以降、出雲国造北島家の当主が教長を継いでいる。

 

現在第80代国造・北島建孝(きたじまたけのり)である』と記されています。《Weblio辞書》によると、北島脩孝の経歴は『出雲国造。北島家七十六代。北島全孝の子。出雲大社権宮司・大教正を務める。明治26(1893)歿、60才』とあります。出雲教の創設者/初代教長・北島脩孝(76代国造)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「金」と伝えられました。出雲教の現教長は、北島建孝(80代国造)です。経歴は《第4回ITCのつどい》によると『第80代出雲国造(平成1791日襲職)。宗教法人出雲教代表役員。

 

国学院大学文学部神道学科卒業。神宮奉職(83ヶ月)。出雲教奉職(平成271)』と記されています。出雲教の現教長・北島建孝(80代国造)総本院所在地(島根県出雲市大社町杵築東194(出雲大社北島国造館))に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金。エゴ。半島」「いいです」と伝えられました。解除・統合した出雲大社に潜んでいた支配の暗闇を脈々とつくりあげてきたというシリウスの闇の存在と同じ重いエネルギーを有している工作員の役割のようです。出雲国造(いずもこくそう)についてはwikiに情報があります。

 

『出雲国造は、出雲国(現在の島根県東部地方)を支配した国造。その氏族の長が代々出雲大社の祭祀と出雲国造の称号を受け継いだ』。また国造の情報はwikiに記されています。『国造(こくそう)は、古代日本の地方行政機構において、旧来からの氏姓制に基づき地方を治める官職の一種。また、その官職に就いた人を指す。ヤマト王権が国の範囲を行政区分として認定し、その長として国造を認定した。古墳時代より続くその地方を支配する地方豪族が任じられ、旧来と同様に、その国内で軍事権(国造軍)、行政権、裁判権などを担った。

 

しかし、大和朝廷に服し、任じられる立場へ変わった。大化の改新・律令制開始以降は、支配権を持たず主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった(律令国造)。律令制下では、それまで地方豪族は地方官である郡司層に就き、地方では旧来の氏姓制が律令制を支えた。また一族は武力の保有や馬の飼育を続けた。平安初期には没落が進み、新たな地方有力層に取って代わられた』。国造は、現在の日本の都道府県の首長に該当すると感じます。当初は、日本各地に分散していた地方豪族が、ヤマト王権に服従しながら統一支配国家が形成されていったことが窺えます。(つづく)