Gakuenji_temple_Konpondo


出雲大社の背後(北側)には、「八雲山(標高426m)」があります。これまでのワークから神社や寺院などの宗教施設は、山を封印する闇の役割だと分かっています。古くから神社や寺院は、支配層の隠された生贄や松取りの拠点でした。出雲大社も直接的には、八雲山を封印する役目があります。また、一般的には、神社や寺院が山の麓や山頂にあることが多いですが、これは山を封じるために置かれているということです。例えば、千葉県の房総半島の先端の南房総市と館山市に跨る山塊には、山塊を取り囲むようにして、35の真言宗智山派寺院が置かれています。

 

房総半島の先端の山塊は、地底があり、多くの光の精霊が存在している場所です。古くから寺院や山塊の地底で生贄・松取りが行われ、光の精霊が闇に変えられてきました。詳細については、《忌部氏が上陸した安房国の地に多数置かれた封印の役割の真言宗智山派寺院》に記されています。このようにして、山塊の地底が大きな光の場所が深い闇の場所に変えられたのです。山塊の地底を本来の光の地に戻すために、封じる役目の神社や寺院と山塊に対して、純粋な祈りを通して光を降ろすことで、闇の精霊を光に反転させることが重要になります。

 

出雲大社の背後の八雲山も同様にして、闇の解除・統合を行う必要があると感じました。出雲大社のグーグルマップから八雲山を見ると「鰐淵寺(がくえんじ)」「韓竈神社(からかまじんじゃ)」が目につきました。まず、鰐淵寺と韓竈神社の調査とワークを進めていきました。また、鰐淵寺と出雲大社の関係については、出雲大社-wikiにも記述があります。『神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた』。昔は、神宮寺が神社を管理していました。鰐淵寺の情報はwikiに記載されています。

 

『鰐淵寺は、島根県出雲市別所町にある天台宗の寺院。山号は浮浪山。中国観音霊場第25番札所、出雲観音霊場第3番札所、出雲國神仏霊場第2番札所。開山は智春上人、本尊は千手観世音菩薩と薬師如来の2体。寺の周辺は宍道湖北山県立自然公園西部地区に指定されている。[歴史]〈草創と修験行場としての発達〉伝承では推古天皇2(594)、信濃の智春上人が当地の浮浪の滝に祈って推古天皇の眼疾が平癒したことから、同天皇の勅願寺として建立されたという。寺号の鰐淵寺は、智春上人が浮浪の滝のほとりで修行を行っている際に誤って滝壺に落とした仏器を、鰐がその鰓(えら)に引っ掛けて奉げたとの言い伝えから生じた。

 

ここで言う「鰐」はワニザメを指すと言われる。なお、出雲市東林木町(ひがしはやしぎちょう)の万福寺(大寺薬師)も同様に推古天皇2年、智春の開山を伝えている。以上はあくまでも伝承であり、創建の正確な時期や事情は明らかでない。鰐淵寺の所在する島根県や隣の鳥取県は修験道・蔵王信仰の盛んな土地であり、当寺も浮浪の滝を中心とした修験行場として発展したものと思われる。浮浪の滝は鰐淵寺の入口から渓流を500mほどさかのぼった地点にある。水量は少なく、滝壺の奥には蔵王堂が建つ。後白河法皇の「梁塵秘抄」に収録された今様に「出雲の鰐淵や日の御碕」と歌われている。

 

平安時代末期頃には修験行場としても発展し日本全国に知られるようになったものと思われる』。鰐淵寺(えんがくじ)の「鰐(わに)」にヒントが置かれています。鰐は、爬虫類の鰐(鰐ザメ)でもあり、プレアデスのワニの宇宙人の意味でもあります。いずれも、人を食べるという生贄や松取りを示唆します。《能登半島の鰐埼から繋がった松取り工作で源義経と通じていた平時忠》にありますが、能登半島には、「鰐埼」の地名があり、源義経と平時忠という源平合戦の松取り工作部隊長と繋がっています。「鰐」がつく名称は、そこで松取りが行われたことを暗示します。

 

鰐淵寺の住職・佐藤泰雄所在地(島根県出雲市別所町148)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「わけのわからない人」「いいです」と伝えられました。鰐淵寺の調べていく過程で《金に汚い名刹??? - 鰐淵寺の口コミ - トリップアドバイザー》には、『久しぶりに鰐淵寺のレビューを見てびっくり!金に関する評判の悪さは凄いですね・・』とい口コミがありました。エゴ・金の闇で覆われているようにも感じます。韓竈神社(からかまじんじゃ)の情報は《出雲神話とゆかりの地》に記載されています。『韓竈神社 主祭神名:須佐之男命 このスポットのご利益:縁結び 

 

〈スサノヲノミコトと鉄の文化〉高所恐怖症と肥満の方、ハイヒールをお召しの方は、ちょっと参拝は厳しいかも知れません。 けれど参拝者が後を絶たない韓竈神社。駐車場から清々しい木立の木漏れ日の中で心を照らされ、しっとりとしたシダの群生の中を静かに歩くと、それだけでこころが洗われ落ち着きます。韓竈神社の建立は不詳ですが、非常に古い由緒を持つ神社といわれています。社名のカラカマは朝鮮から渡来した「釜」を意味するとされ、祭神のスサノヲノミコトが御子神(イソタケルノミコト)と共に新羅に渡り、日本の「植林法」の伝授と「鉄器文化」を開拓されたと伝えられています。

 

斐伊川をよく見てみると砂地の中に黒いものが見えますが、これは砂鉄です。これはこの出雲は鉄が多く取れることを示します。今も出雲の野山にはこの鉄を作るタタラ場の跡が多く残っています。江戸時代に松江藩士が編集した地方紙「雲陽詩」(1717)には、 「スサノヲノミコトが乗り給いし船なりとて、二間四方ほどの平石あり、これを「岩船」という。この岩は本社の上へ西方より屋根の如くさしかざしたる故に、雨露も当たらず世俗に「屋方石」という。又、岩船のつづきに周二丈余り、高さ六間ほどの丸木立岩あり、これを「帆柱石」という。」 と記されています。

 

鉄が多いこの地を見据えて、鉄製を進めようとすれば多くの樹を必要とします。そのために植林を進めて、この地を豊かにしようという壮大なスサノヲノミコトの力と影響を物語っています。そうしたスサノヲノミコトの偉業とロマンの跡がこの韓竈神社には感じられます』。引用サイトの情報にもありますが、韓竈神社の「韓竈」とは、「朝鮮半島からの釜」という意味です。「釜」はたたら製鉄の釜(製鉄炉)のことです。《鉄の道文化圏》には、たたら製鉄のしくみについて書かれています。『たたら操業に従事する人々の間には「一釜、二風、三村下むらげ」という言い伝えがあります。

 

操業を成功させる秘訣の第一は「よい粘土を使った釜(製鉄炉)づくり」、第二に「製鉄炉に送る風の調整」、そして第三に「村下(たたら操業の総監督)」というわけです』。《同和の闇の源流となるサンカの人々を支配する目玉のエネルギー体の統合》にありますが、出雲の地、特に奥出雲は、たたら製鉄の中心地でもあります。たたら製鉄は、砂鉄を火で溶かして鉄を作る工程ですが、支配層の松利権が絡んでいます。松取り後の遺体を火で焼却して証拠隠滅のための工作として使われてきたと見ています。たたら製鉄は、光だった「火」を闇に変える仕組でもあったのです。

 

また、山にある磐座(巨石)に宿る光の精霊を闇に変える働きもしてきました。韓竈神社は、たたら製鉄が行われ隠された松の闇が置かれた場所であることが分かります。松取り場所であり、光の精霊を闇に変えた地でもあります。韓竈神社の宮司・佐々木佑所在地(島根県出雲市唐川町408)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「半島術師。光を採っている」「いいです」と伝えられました。今も参拝客の魂の光を採取しているようです。鰐淵寺と韓竈神社は、朝鮮半島からの渡来人によって出雲の地の先住民を犠牲にした松取りが行われてきた場所であると推察します。(つづく)