Kumano_taisha


出雲大社の背後(北側)にある八雲山(標高426m)を封じる役割としての鰐淵寺(がくえんじ)と韓竈神社(からかまじんじゃ)の調査とワークを行いましたが、次に出雲大社の周辺で気になる寺社として「熊野大社」をピックアップしました。熊野大社は、島根県松江市八雲町熊野にある「八雲山」の麓にあり、八雲山を封じる役割もしていると捉えました。また、出雲大社とも縁が深いことがwikiに記されています。『国造の代替わりの儀式である「火継式」に際しては、熊野大社と神魂神社にて儀式が行われ、現在でも熊野大社との関係を維持している』。

 

神魂神社(かもすじんじゃ)については、201411月に巡礼の旅で現地を訪れてワークを行っています。《島根 八重垣神社 ~巡礼の旅(171)~》に詳細が記されていますが、神話の神である天穂日命(アメノホヒノミコト)が大国主命に対して許しを請い、許されて光に還って行きました。天穂日命は、渡来人の背後にいた闇の火のエネルギーの役割であり、先住民の光の水のエネルギーを封印してきたと見ています。島根県松江市八雲町熊野にある熊野大社の情報はwikiに記されています。『熊野大社は、島根県松江市八雲町熊野にある神社。式内社(名神大社)、出雲国一宮。

 

旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「一重亀甲に「大」の文字」。[概要]火の発祥の神社として「日本火出初之社」(ひのもとひでぞめのやしろ)とも呼ばれ、出雲大社と共に出雲国一宮である。出雲国造本来の奉斎社であり、意宇六社の一つに数えられている。紀伊国の熊野三山(熊野国造奉斎社)も有名だが、熊野大社から紀伊国に勧請されたという説と、全くの別系統とする説がある。社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている。

 

和歌山県御坊市の熊野神社の伝記には「往古出雲民族が紀伊に植民する際にその祖神の分霊を出雲の熊野より紀伊の新熊野に勧請する途中、「当地に熊野神が一時留まりませる」ということが社由緒」となっている。[祭神]祭神は次の1柱。・伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命 祭神名の「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」は「イザナギが可愛がる御子」の意、「加夫呂伎(かぶろぎ)」は「神聖な祖神」の意としている。「熊野大神(くまののおおかみ)」は鎮座地名・社名に大神をつけたものであり、実際の神名は「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」ということになる。

 

「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。これは「出雲国造神賀詞」(716)に出てくる神名を採用したものであり、「出雲国風土記」(733)には「伊弉奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(いざなぎのまなご くまのにます かむろのみこと)」とある』。和歌山県の熊野三山も熊野大社ですが、神魂神社で闇の火の源流となる天穂日命が光に還ったことから、島根県松江市八雲町熊野にある熊野大社が「火」の源流だと感じます。深い暗闇の世界を構築するために、「火」は「水」を封じる闇の役割として重要でした。

 

出雲大社の宮司・熊野高裕と所在地(島根県松江市八雲町熊野2451)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「術師」「いいです」と伝えられました。出雲大社の宮司にはシリウスの術師が憑いていたようです。出雲大社のグーグルマップを観ていると「熊野大社元宮 斎場跡」が目に入り、大事な場所だと感じました。《熊野大社元宮》には「熊野大社元宮 斎場跡」の情報が記載されています。『[天狗山(熊野山)の熊野大社元宮、斎場跡について] ここは出雲国一の宮・熊野大社の元宮の斎場跡(祭場跡)で、古くからり元宮平(げんぐがなり)といわれている地です。

 

天平5(733)に編纂の「出雲国風土記」に「熊野山。所謂熊野大神の社坐す」と記されておりますが、正面の山斜面の上方に聳えます巨岩を磐座といい、かつて熊野大社の元宮でありました。古代にあって一般に神社は特定の岩石や樹木、池沼や山岳等を」直接拝しておりましたが、やがて時代とともにその多くが社殿造りのものとなり、そして祀られる場所も次第に人里近くへと遷されてまいりました。熊野大社も歴史を経る中で社殿を有す神社となり、鎮座地もより人里へと遷されて現在のような神域、社殿で下宮内地区に鎮座するようになりました。

 

皆様方にはここ(石組手前)から磐座を仰ぎ見られ、しばし悠久の昔の熊野大社並びに原初の大神の宮に思いを致されてはいかがでしょう。尚、毎年5月第四日曜日には、この斎場跡で熊野大社の神職をはじめ地元及び全国各地からの方々により元宮祭が執り行われています。朝、熊野大社へ集合しお祓いをうけて登山します。詳細は熊野大社へお尋ねください。(社頭掲示板)』。熊野大社元宮 斎場跡は、熊野大社の本宮であり、磐座(いわくら・巨石)のある山中にある社です。熊野大社元宮 斎場跡では、磐座の上の生贄・松取りの儀式が成されていたと推測します。

 

古代インカのミイラが示唆する松果体摂取という生贄のための麻薬や酒》では、京都の松尾大社の裏山にある磐座の上の生贄・松取りに言及しています。生贄の儀式には、麻薬やアルコールが用いられており生贄の犠牲者が出来るだけ苦しまないような工夫がされていました。磐座の精霊を闇にするための生贄・松取りの儀式だったと捉えています。熊野大社元宮 斎場跡の所在地(島根県松江市八雲町熊野)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「死人がいっぱいいる。トカゲの出入口」と伝えられました。やはり生贄や松取りが行われてきたようです。

 

再度、亡くなった人たちの魂が上がるよう意図して光の柱を降ろすと「いいです」と伝えられました。次に、2つの「八雲山」のワークを行いました。八雲山の1つは、出雲大社の背後にある八雲山(所在地:島根県出雲市大社町杵築東)です。出雲大社の背後の八雲山の情報は《TABIZINE》に記されています。『素鵞社の裏手にある「八雲山」は、神職すら入ることができない禁足地になっています。出雲大社の御神体が八雲山だといわれているのです。出雲大社の公式サイトには御神体について記載がありません。しかし、本殿裏の八雲山の裾にあたる場所には「磐座(いわくら)」があり、その磐座を背負うようなカタチで素鵞社が鎮座しています。

 

また、鎌倉時代から江戸時代初期にかけては出雲大社の祭神だったとされる「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」が「素鵞社」に祀られているのです』。八雲山は禁足地であり、本来は大事な光がある場所だと感じます。出雲大社の背後の八雲山所在地(島根県出雲市大社町杵築東)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。もう1つの八雲山は、島根県松江市八雲町熊野に所在します。南西側麓に須我神社、北東側麓に熊野大社があります。須我神社については、《鳥取 大神山神社奥宮 ~巡礼の旅(172)~》にありますが、201411月に現地を訪れてワークを行っています。

 

この八雲山には、大本(大本教)の出口王仁三郎が「八雲山歌碑」を置いたことが《八雲山|オニペディア-出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典》に記されています。『昭和7(1932)1018日から29日まで、出口王仁三郎は澄子と共に竹田町愛善郷や山陰地方を巡教した。1024(925)には八雲山に登り、頂上を神跡として整備するよう命じた。山頂に小さな祠が建てられ、御霊代(みたましろ)には約30年前に山麓から発掘された古鏡(こきょう)を用い、大本八雲神社と名づけられた。同年1122(1025)、大本八雲神社の鎮座祭が行われた。

 

昭和8(1933)1110(923)王仁三郎臨席で八雲神社の秋季大祭が行われ、その後、歌碑の除幕式が行われた。歌碑は「八雲山歌碑」と呼び、「八雲たつ出雲の歌の生《うま》れたる須賀の皇居《みやゐ》の八重垣の跡」という歌が刻まれた』。《支配と霊力を司るワニの宇宙人を感じる大本の教祖・出口王仁三郎》から出口王仁三郎は、松利権工作の役割のワニの宇宙人が関係しており、八雲山の光を封印する役割だったと理解しています。八雲山所在地(島根県松江市八雲町熊野)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。(つづく)