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ワイツマン科学研究所に関係する重要人物として、創設者でイスラエルの初代大統領のハイム・ヴァイツマンの他に、ワイツマン科学研究所の初代所長に就任する予定だった「フリッツ・ハーバー」がいます。
フリッツ・ハーバーを追跡していくと、日本の支配層・八咫烏と深く関係していた歴史があることが窺えます。wikiには、『1934年、ハイム・ヴァイツマンとベンジャミン・ブロッホがダニエル・シーフ研究所として設立し、「化学兵器の父」として名高いユダヤ人化学者でナチス・ドイツから逃れようとしたフリッツ・ハーバーを所長に招いた。

 

しかし、ハーバーはパレスチナに渡る道中で死去したため、ヴァイツマン自ら所長に就いた』と記されています。フリッツ・ハーバーの経歴はwikiに記載されています。『フリッツ・ハーバー(Fritz Haber1868-1934)は、ドイツ出身の物理化学者、電気化学者。空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で知られる。1918年にハーバー・ボッシュ法の業績に対して、1931年に工業化を実現させたことでノーベル化学賞を2回受賞した。第一次世界大戦時に塩素を始めとする各種毒ガス使用の指導的立場にあったことから「化学兵器の父」と呼ばれることもある。

 

ユダヤ人であるが、洗礼を受けユダヤ教から改宗したプロテスタントである。[経歴]〈生い立ち〉プロイセン王国領シレジア(シュレージエン)のブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)でユダヤ人の家系に生まれた。父のジークフリートは染料を主に扱う商人であった。また、母のパウラはジークフリートの叔父の娘である。パウラはフリッツを産んだ3週間後に産後不良で死去し、ジークフリートはその6年後に再婚した。この再婚相手はフリッツに優しく接し、関係は良好であった。しかし当の父親とフリッツは性格が異なり、しばしば対立した。11歳のときにギムナジウムに入学した。

 

ギムナジウムでは文学や哲学を学び、詩を自作した一方で化学にも興味を持った。はじめ自宅で実験を行っていたが、異臭がするからなどの理由で父親に禁止されたため、その後は叔父のヘルマンの家で実験を行っていた。卒業後、家業を手伝わせたいという父親の意向により、ハンブルクの染料商に弟子入りし教育を受けた。しかしこの仕事場はフリッツには合わなかった。そのため23か月後に、叔父と継母の協力を得て、父親を説得し、染料商の仕事を辞め、1886年、ベルリン大学へと進学した。フリッツは大学で化学を専攻した。当時のドイツは化学、特に有機化学の分野に秀でていた。

 

ベルリン大学にはそのドイツの有機化学の象徴的存在であるアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンがいた。フリッツが化学を専攻したのは、大学時代にホフマンの影響を受けたためともされているが、それ以前から化学への道を進む決心をしていたともいわれており、その時期についてははっきりしていない。ベルリン大学で1学期化学を学んだあと、1年間ハイデルベルク大学でロベルト・ブンゼンに師事し、その後2年間の兵役についた。兵役期間中には、後の妻となるクララ・イマーヴァールと出会った。兵役終了後はベルリンのシャルロッテンブルク工科大学で学んだ。

 

ここでは有機化学の分野で名をあげたカール・リーバーマンに学んだ。そして1891年、ピペロナールの反応についての論文で博士号をとった』。wikiの「資金の調達」の項目には、フリッツ・ハーバーが星一(ほしはじめ)から資金提供を受け深く関係していたことが記載されています。『ドイツの敗戦により、フリッツの研究所は資金難に陥っていた。これを解消するため、星一による星基金を活用するなど、財政面での改善を進めた。・・1924年に西回りの世界一周の旅に出て、星一の招待により、日本にも2か月滞在している。函館で叔父ルートヴィヒ(Ludwig Haber)の遭難50周年追悼行事に参加した』。

 

星一(1873-1951)は、福島県いわき市出身の実業家、政治家です。星製薬の創業者であり、星薬科大学の創立者でもあります。長男はSF作家の星新一、次男は日揮常務の星協一です。それまでは輸入に頼っていた、外科手術に不可欠なモルヒネの国産化に成功する等、「東洋の製薬王」と呼ばれました。星製薬はチェーンストアという販売方式を日本で初めて確立しました。野口英世やフリッツ・ハーバーのパトロンとしても知られています。《隠された暗黒の日本の歴史》にありますが、星一は台湾総督府に納められたアヘンを使って、モルヒネを製造していました。

 

後藤新平(1857-1929年・岩手県現奥州市水沢出身の医師、官僚、政治家)二反長音蔵(1875-1951年・大阪府茨木市出身の農業技術者、日本の阿片王)と共に、支配層・八咫烏の工作員の役割でした。表の日本軍によるアヘン政策の裏で支配層の松・薬利権という資金集めの実行部隊としての役割を果たしていたのです。昭和戦前期に日本は満州、朝鮮、内蒙古などの植民地、占領地でケシを栽培してアヘンを製造し、これが軍部の収入源となっていました。アヘンの原料はケシの実です。八咫烏工作員の星一がフリッツ・ハーバーに資金提供した意味が重要です。

 

フリッツ・ハーバーは、化学的に固定窒素を合成させることができたのです。窒素は、肥料など人間の食糧に深く関わりますが、それ以上に支配層の松利権に重要でした。松の缶詰などの松製品の防腐剤としての塩硝(硝酸カリウム)や冷凍機の冷媒として利用されるアンモニアを工業的に製造することを可能にしました。松製品の原料となる遺体を腐敗させないために防腐剤や冷凍機が必要だったのです。硝酸カリウムは戦争の武器に必要な火薬の原料でもあります。また、フリッツ・ハーバーは、「化学兵器の父」と呼ばれる通り、化学兵器の製造によって、アウシュヴィッツなどユダヤ人強制収容所での毒ガスによる殺戮が成されました。

 

wikiには、次のように記載されています。『窒素は植物の生育に必要不可欠な栄養素であるが、19世紀末のヨーロッパではこれを南アメリカから輸入されたチリ硝石などでまかなっていた。現在においても肥料を目的としたアンモニアの生成は、ハーバー・ボッシュ法によって行われており、世界中の食糧生産を支えている。またアンモニアは化学肥料だけでなく、火薬の原料でもあった。・・1919年にフリッツが液体殺虫剤として開発したツィクロンBは、その殺傷能力に着目され、1942年ごろよりアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所などのユダヤ人強制収容所で、ガス殺用途で使用された』。

 

当時の支配層・八咫烏にとって裏の金儲けである松利権を維持拡大するために、戦争という松取り工作に重きを置いていました。フリッツ・ハーバーの空気中の化学的な窒素の固定化技術とアンモニアの製造法は、松工作に必要不可欠だったのです。ドイツ出身のユダヤ人でノーベル化学賞受賞者のフリッツ・ハーバーの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「アーク」と伝えられました。やはり、叡智を有するアークの宇宙人が憑いた工作員だったようです。ワイツマン科学研究所が、日健総本社の微細藻類応用事業のパートナーとなっているのは、イスラエルと日本の支配層の松利権の歴史のベースがあるからです。(つづく)