日健総本社は、日本工営(現・ID&Eホールディングス㈱)と東京農業大学との間で包括協定を結びました。表のビジネスの裏には松利権が潜んでいます。松利権の闇が絡んでいる日健総本社が取引する相手もまた、必然的に松利権の闇が潜んでいることになります。wikiには『2022年(令和4年)2月24日に日本工営・東京農業大学との間で包括連携協定が締結された』とあります。日本工営と東京農業大学について調査とワークを進めました。日本工営の情報はwikiに記載されています。『日本工営株式会社とは、東京都千代田区麹町に本社を置く日本最大手の建設コンサルタントである。
創業者は久保田豊。持株会社のID&Eホールディングス株式会社が東京証券取引所プライム市場に上場している。[会社概要]創業は戦後であるが、起源は戦前の朝鮮半島におけるダム建設、電源開発である。日本工営の初代社長・久保田豊らは、久保田工事事務所を設立して、戦前、大陸での水力発電事業などに従事し、発電所をはじめ、数々の電源開発およびそれに付帯する鉄道や舟運事業などに数年にわたり活動する。特に鴨緑江に建設された水豊発電所が有名である。その関係で、河川・ダムの計画・設計に強みを持つ。
戦後の1946年6月、日本工営の前身会社である新興産業建設社を設立する。現在では、河川・ダム以外にも、道路、鉄道、港湾、空港、上水道・下水道、電力設備の計画・設計・維持管理、各々の施設の構造物(橋梁・トンネルなど)の設計・維持管理、並びに施設建設に関係する地盤・地質に関する調査も行っている。また、環境関連事業(環境影響調査、生態系調査など)、防災関連事業(地すべり対策、減災対策、事業継続計画など)、情報関連事業(GIS、CALS、ITS、ICTなど)も手がけている。海外事業に強いのも特徴である。
1950年の朝鮮動乱期においてGHQから朝鮮復興に協力を要請されたことを契機に事業を展開。その後、1951年のサンフランシスコ講和条約を受け、東南アジア外交にて、同条約第14条により賠償義務が発生した際、この事業に当社が第1号として進出し、ラオス、ナムグム川、ナムグムダムの建設等、以来東南アジアを中心に数多くの海外プロジェクトを手がけている。また、国内外の建設コンサルタントを傘下に収めている』。日本工営は、2023年7月にID&Eホールディングス株式会社となっています。
日本工営については、過去の記事《鈴木宗男事件から繋がる日本工営と日本の裏世界の支配》において言及しており、当時の経営トップに光を降ろしています。日本工営が絡む松利権の闇が隠されたODA利権が表面化した事件が、鈴木宗男議員がスケープゴート的な首謀者となった鈴木宗男事件です。日本工営の創業者は、久保田豊です。経歴はwikiに記されています。『久保田豊(1890年-1986年)は、日本の実業家。位階は正三位。日窒コンツェルンの野口遵と共に、当時世界最大級の水豊ダムをはじめ、朝鮮北部に大規模なダムを建設した。戦後は建設コンサルタント会社日本工営社長を務めた。
[履歴]・1890年(明治23年)-熊本県阿蘇に生まれる。・1914年(大正3年)-熊本中学校を経て、東京帝国大学土木工学科卒業、内務省で河川改修工事に従事。・1920年(大正9年)-久保田工業事務所を設立。その後、野口遵の元で朝鮮を中心に日窒コンツェルンのダム建設に従事。・1936年(昭和11年)-朝鮮総督宇垣一成と朝鮮軍司令官小磯国昭大将に鴨緑江開発計画案を説明。・1946年(昭和21年)-建設コンサルタント会社である新興電業株式会社(翌年に日本工営に改称)を設立。同年公職追放。・1984年(昭和59年)-開発途上国の発展には途上国自体による自立・自助が必要だった。
そのために優れた技術者の養成が不可欠との考えで公益信託久保田豊基金を設立。・1985年(昭和60年)-勲一等旭日大綬章受章。・1986年(昭和61年)-96歳で死去。墓所は多磨霊園。[業績]日窒コンツェルンの長津江水電、朝鮮送電の取締役を経て、朝鮮電業社長に就任。当時世界的な生産規模を有していた朝鮮窒素肥料興南工場などへ電力を供給する体制を整えた。また世界でも最大級のダムである鴨緑江の水豊ダムの建設を実現した』。久保田豊が実績を積んだダム・日本陸軍・発電所・窒素肥料は、いずれも裏で松取りの闇が絡んでおり、支配層の松利権への貢献した栄誉としての勲一等旭日大綬章受章に繋がっています。
日本工営の創業者・久保田豊の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「どす黒いDS」と伝えられました。以前のワークの際には、「近代反社の祖」とも伝えられています。いずれにしても、裏の金儲けである松利権の現場に深く関わる重い役割の工作員だったと捉えています。日本工営(現・ID&Eホールディングス㈱)の取締役代表執行役社長は、新屋浩明(しんやひろあき)です。経歴は《日本経済新聞》によると、『新屋浩明氏(しんや・ひろあき) 85年(昭60年)東北大院修了、日本工営入社。17年取締役執行役員、20年取締役専務執行役員。鹿児島県出身。60歳』と記されています。
日本工営(現・ID&Eホールディングス㈱)の取締役代表執行役社長・新屋浩明、本社所在地(東京都千代田区麹町5丁目4)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「DS」「いいです」と伝えられました。やはり、現在の日本工営(現・ID&Eホールディングス㈱)のトップも支配層のDS工作員の役割のようです。次は、「東京農業大学」です。東京農業大学については、個人的に1つの疑問を持っていました。それは、北海道の果ての網走市にキャンパスを有していることです。網走市には、網走刑務所(旧・網走監獄)があります。
《北海道月形町の樺戸集治監で松システムをつくっていた》にありますが、北海道開拓期の集治監や監獄は、樺戸集治監を主に、松システムの構築のための囚人を利用した支配層の松工作拠点でだったことが分かっています。故に、この疑問に対しては、東京農業大学の創設者が榎本武揚だったと知ることで納得しました。《北海道開拓における大麻栽培の中心となった屯田兵》に記されている屯田兵は、西郷隆盛、榎本武揚らが、徳川家の遺臣や士族の処遇のために屯田兵を提唱したことから創設されたのです。屯田兵は、実質的に北海道開拓を隠れ蓑にした支配層の松取りのサンカ工作員です。
また、東京農業大学の源流は、旧幕臣の子弟を援助するための徳川育英会育英黌(とくがわいくえいかいいくえいこう)なのです。《育英黌農業科の開校とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書》に詳細情報があります。『1885年、榎本と伊庭想太郎らが中心となり、旧幕臣の子弟に対する奨学金支給のため徳川育英会を設立。この徳川育英会を母体に、1891年(明治24年)3月6日、東京・飯田橋に「育英黌」を設立し管理長に就任した。育英黌は、農業科(現在の東京農業大学)、商業科、普通科の3科があったが、甲武鉄道の飯田橋延伸に伴う敷地の買収話が持ち上がった。
農業科は翌1892年10月23日、小石川区大塚窪町(現在の文京区大塚三丁目)に移転し、育英黌分黌農業科と改称した。更に1893年、私立東京農学校と改称し、榎本は校主となった』。榎本武揚は、旧幕府軍から新政府軍の幹部に移った人物です。その陰には、剃髪して榎本武揚の助命嘆願を行った開拓使のトップの黒田清隆の存在がありました。榎本武揚は、まさしく八咫烏の同和派の重要工作員の役割でした。東京農業大学は、榎本武揚が主導した北海道開拓という支配層の裏の金儲けである松システムのための工作拠点の役割だったと感じます。(つづく)