
田部家、桜井家と共に「たたら御三家」を構成する家系のもう1つが「絲原家(いとはらけ)」です。絲原家の当主が古くから名乗ってきた名前が「絲原武太郎(いとはらぶたろう)です。絲原武太郎の情報はwikiに記載されています。『絲原武太郎(いとはらぶたろう)は、島根県奥出雲の大地主で「鉄師御三家」の絲原家の当主2人の名前(他家と異なり襲名制ではない)。・絲原武太郎(12代)-実業家・貴族院多額納税者議員。・絲原武太郎(13代)-実業家・貴族院多額納税者議員。14代絲原義隆、15代絲原徳康はいずれも島根県議員。
16代絲原丈嗣は有限会社絲原専務取締役・絲原記念館副館長。奥出雲町に「絲原記念館」がある』。12代絲原武太郎の経歴はwikiに記されています。『12代 絲原武太郎(1853年-1911年)は出雲国仁多郡八川村大字大谷(現・島根県仁多郡奥出雲町)出身の地主、実業家、政治家。鉄師絲原家12代、貴族院多額納税者議員。[経歴]鉄師糸原家11代・絲原権造の長男として生まれる。1895年(明治28年)父の死去に伴い家督を継承。1882年(明治15年)以降、島根県仁多郡横田村外三村戸長、仁多郡会議員、所得税調査委員、島根県農会評議員、八雲銀行頭取、松江銀行取締役などを務めた。
1906年(明治39年)6月27日、島根県多額納税者として補欠選挙で互選されて貴族院多額納税者議員に任じられ、急性脳膜炎により死去するまで在任した。公益事業にも関心が高く、慈善事業、公共建築事業などに多額の寄付を行った。[産業振興の働き]〈鉱業〉家業の製鉄事業(たたら製鉄)は、外国産の輸入の拡大によって打撃を受けた。そこで、1882年(明治15年)頃より工部省、海軍省に製品の買い上げを働きかけると共に、専門家の派遣を依頼して品質の向上を図った結果、海軍省への納入の拡大を実現した。〈農業〉仁多郡内の農業不振に対応するため有志と仁多郡農談会を組織して会長に就任した。
農家への啓蒙と技術の向上を図り、島根県から農事試験委員を嘱託された。また、三成村に私費で農事試験場を設置して種苗の試験を行い、優良な種苗を選別して農家へ供給した。〈林業〉特に林業の発達に力を尽くした。仁多郡の山林は良材林が少なかったため、杉、檜の植林を推進した。当初、苗木の作成方法の未熟により枯死が多かった。そのため、吉野地方の杉檜の良種を求め、園丁を苗木作成の方法を習得のため島根県農事試験場に派遣し、その成果を私設農事試験場で用いて苗木を作成して供給し、また、希望者には作成方法を伝習するなど、造林事業の振興を図った。
〈蚕業〉仁多郡は比較的蚕業に適しているもかかわらず振るわなかったため、自ら滋賀県から良苗を購入して桑園を作り養蚕を行い、経験を積んだのちに蚕業の普及に努めた。また、農商務省から招いた技師の講話から、収穫量を高めるには蚕紙の優劣が重要と悟り、長野県から優良な蚕紙を導入した。〈畜産業〉仁多郡は牛馬の主産地として知られていたが、廃藩後に指導、奨励する体制が整わず衰退していた。そのため、私有の林野を用いて牧場を開設して民有の牛馬の放牧に開放し、また、牛の品種改良に取り組んだ。馬の改良では青森県から種馬を購入し、宮内省から種馬の借用したり軍馬の払い下げによって対応しようと図った。
しかし、仁多郡内のみの取り組みでは限界があり、島根県に対して種馬所の設置を要望した。さらに、貴族院議員、衆議院議員、農商務省などにも要請を続け、1901年(明治34年)仁多郡八川村の私有牧場に島根種馬所の設置が実現した。[親族]・養嗣子 絲原武太郎(13代)(実業家、貴族院多額納税者議員)』。12代絲原武太郎は、実業家・政治家として、田部家や桜井家ではあまり見られなかった慈善事業や公共建築事業などに多額の寄付を行っていました。また、裏に松利権が潜むたたら製鉄を含む鉱業の他に、農業・林業・養蚕業・畜産業にも注力していたことが分かります。
12代絲原武太郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「イルミ」と伝えられました。イルミナティは、実質的に暗闇の役割を担うトカゲ・レプタリアンの宇宙人の集団組織です。《イルミナティを構成するレプタリアンと人間の松果体の支配》にありますが、イルミナティのトカゲは、人間の魂の光が宿る松果体を採取することが役割になります。闇のエネルギー体であるトカゲは、人間の魂の光のエネルギーを採取することで生きていけるようになります。松果体のエネルギー採取は、現実的には生贄や松取りに繋がり、支配層の子どもさらいや人身売買の松利権網に絡んできます。
13代絲原武太郎の経歴はwikiに記されています。『13代絲原武太郎(1879年-1966年)は島根県出雲郡原鹿村(現・出雲市斐川町原鹿)出身の地主、実業家、政治家。鉄師絲原家13代、貴族院多額納税者議員。旧姓・江角、旧名・徳次郎。[経歴]地主・江角勝太郎の二男として生まれた。1900年、東京正則中学校を卒業し東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学したが、1901年に鉄師糸原家12代・絲原武太郎の養子となり中退した。1911年、養父の死去に伴い家督を継承し武太郎を襲名した。家業の製鉄業を1922年に廃業し、新たな事業として、先代が推進した植林を継続する中で製炭に着目して、島根木炭として関東地方にも出荷した。
農業分野では、先代から引き継いだ開墾事業を継続し、また、農事改良組織「絲原農会」を組織して、地主小作間の調整を図り、小作人の技術指導を行った。金融界では、1911年に八雲銀行頭取に就任し、1916年、松江銀行などと合併して新たな松江銀行が誕生すると頭取に就任。1941年、米子銀行と合併して山陰合同銀行が設立すると取締役となり、1959年から死去するまで会長を務めた。先代からの願望であった宍道(現松江市)から木次(現雲南市)間の鉄道敷設のため、1914年に私鉄簸上鉄道株式会社を設立して社長に就任し、1916年に営業を実現し、1934年の鉄道省移管まで社長を務めた。
その他、1940年から出雲電気社長を務めたほか、山上生産取締役、山陰新聞社長、島根県農会長、同山林会副会長、同米穀会副会頭、帝国中央畜産会評議員、帝国農会議員などを務めた。政界では、八川村会議員を務め、1925年9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられ、1939年9月28日まで二期在任した』。13代絲原武太郎は、たたら製鉄からの製鉄業を廃業して「製炭業」に移行しました。《静岡 天城山を封じる工作の闇を暗示する松本清張の「天城越え」と「炭焼き市兵衛の墓」 ~巡礼の旅(746)~》にありますが、木材が原材料となる「製炭業」も、たたら製鉄と同様に「火」を使うことから、裏に松利権の隠されていると見ています。
先代から引き継いた「開墾事業」もまた、現場労働者を犠牲にした松取りの闇が潜んでいます。開墾と松取りの関係については、ヒプノセラピー記事《千葉県八街市の開墾の裏で松取りの仕事をしていた過去世の統合》に記されています。その他、13代絲原武太郎が携わった電気会社や鉄道会社も、支配層の松利権が絡んでいます。13代絲原武太郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS」と伝えられました。どうやら、絲原家の当主は、DS工作員の役割だったようです。たたら御三家の田辺家が八咫烏鶴派、桜井家が八咫烏亀派の役割であり、絲原家がDSという八咫烏同和派の役割を担っていたと感じます。
八咫烏鶴派は、中国・欧州・ロスチャイルドの勢力であり、八咫烏亀派は、朝鮮・米国・ロックフェラーの勢力となります。そして、エゴの闇が大きくなったDSは、八咫烏同和派であり、鶴派と亀派を戦わせて利益を得る勢力です。同和派は、最も重たく汚い闇のエネルギーを有します。出雲国である島根県の支配層・八咫烏の派閥勢力が、鶴派・亀派・同和派という三角形の構図になっています。出雲国のたたら製鉄の松利権を有する「たたら御三家」の三角形の関係には、とても興味深く驚きました。日本において、一番、最初に渡来人が乗り込んだとされる出雲の地が日本全体の縮図になっていると捉えています。(つづく)