たたら製鉄の源流の地と言われ、たたら御三家にも縁が深い地が、島根県奥出雲町です。たたら御三家の中でも、特に、桜井家と絲原家に縁が深い地です。桜井家の可部屋集成館(櫻井家住宅(国の重要文化財)・櫻井氏庭園(国の名勝))と絲原家の絲原記念館(絲原家居宅(国の登録有形文化財)・絲原氏庭園(国の名勝))があります。奥出雲町でたたら製鉄が盛んに行われたことは、自然の光である目に見えない精霊が多く存在することを意味します。暗闇にするために、松取り工作であるたたら製鉄を行うことで、目に見えない光の精霊を闇に変えてきたのです。
それは、光を闇に変えて、闇のエネルギーの供給原にすることでもあります。奥出雲の地を本来の光の姿に戻す必要があります。まず、島根県奥出雲町の支配層の調査とワークを行うことにしました。奥出雲町の情報はwikiに記載されています。『奥出雲町(おくいずもちょう)は、島根県の東部、仁多郡の町。[地理]島根県の東部の山間地域に位置し、中国山地の準平原面にあたる200m~400mの起伏の緩やかな山地が多いものの、横田・馬木・亀嵩・阿井などには広い盆地が発達している。急峻な山地は県境付近と雲南市との境周辺に限られ、また町全体が豪雪地帯となっている。
一級河川である斐伊川の源流部にあたり、その支流として室原川、亀嵩川、大馬木川、三沢川、八代川、阿井川などがある。主な山は南部地域に出雲地域の最高峰でもある猿政山(1267m)があり、その他船通山(1142m)、吾妻山(1238m)、鯛ノ巣山(1026m)などがある。広島・島根県境付近では江の川水系と斐伊川水系の間に顕著な河川争奪地形が見られ、斐伊川水系側に急峻な地形が発達している(典型例:三井野原・平家平、上阿井王貫峠)。このエリアは、豊かな自然に恵まれていることから比婆道後帝釈国定公園に指定されている。
町域の大部分は中生代白亜紀最末期から新生代第三紀の花崗岩をはじめとする深成岩体からなり、一部に白亜紀後期および第三紀の火山岩があり、わずかに中期中新世の堆積岩、第四紀の玄武岩などが露出する。深成岩類の多くは深部風化のため真砂化しており、これより産する砂鉄を利用したたたら製鉄が盛んに行われた』。島根県奥出雲町の支配層のワーク対象の要人としては、奥出雲町長・奥出雲町議会議長・奥出雲町商工会会長・奥出雲町観光協会会長の4人を選びました。出雲町の支配層を調べていくと、絲原家の力を感じました。
町長、町議会議員2人、観光協会会長の4人が「糸原」姓であり、たたら御三家の「絲原家」と繋がっていると捉えました。八咫烏同和派でDS工作員の役割の絲原家が奥出雲町に大きな影響力を持っていることが示唆されます。奥出雲町の町長は、糸原保です。糸原保の経歴について調べると、ネット情報は殆ど見つかりませんでした。しかし、《山陰中央新報デジタル》には、『前職:奥出雲町八川出身の県雲南県土整備事務所長』とありました。糸原保は、恐らく島根県の役人の出身のようでした。
また、《島根リハビリテーション学院公式サイト》によると、糸原保は、島根リハビリテーション学院の理事長に就いています。島根リハビリテーション学院は、平成10年に地元自治体が母体となり島根県で最初に設立された理学・作業療法士養成専門学校です。《バフェット・コード》から奥出雲町長・糸原保は、一般社団法人奥出雲町観光協会の会長を兼任していることが分かります。奥出雲町の町長・糸原保(奥出雲町観光協会会長)と役場所在地(島根県仁多郡奥出雲町三成358番地1)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「松。ゴム」「いいです」と伝えられました。
どうやら、観光協会トップを兼任する奥出雲町長は、もう既に、替え玉になっており、松工作員のようです。《奥出雲町公式サイト》によると、奥出雲町の町議会議長は、石原武志です。《島根県第一種フロン類充塡回収業者登録簿》から、石原武志は、ダイニ電工(株)(パナソニックの店)の代表と分かります。《山陰中央新報デジタル》によると、奥出雲町商工会の会長は、植田良二です。植田良二は、植田工務店代表取締役でもあります。奥出雲町議会議長・石原武志、奥出雲町商工会会長・植田良二に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「創価」「見張り役」と伝えられました。
やはり、古くからの松工作場所なので創価の工作員となっているようです。奥出雲町の支配層の要人のワークを終えて、奥出雲町の自然に光を降ろすワークに移りました。今回の奥出雲町の自然のワークは、ネットで調べて、山を中心に7箇所をピックアップしました。船通山(せんつうざん)、鳥上滝(とりがみたき・鳥上の滝)、鯛ノ巣山(たいのすやま)、鬼の舌震(おにのしたぶるい・奇岩がある峡谷)、吾妻山(あづまやま)、猿政山(さるまさやま)、玉峰山(たまみねさん)です。まず、船通山です。船通山は神話に関係する山です。詳細情報はwikiに記されています。
『船通山(せんつうざん)は、鳥取県日南町と島根県奥出雲町の県境にある標高1,142mの山である。比婆道後帝釈国定公園の一部で、島根県東部を流れる斐伊川の源流域にあたる。山頂からは四方が展望でき、大山や比婆山連峰、晴れた日には、三瓶山や島根半島、条件が整えば隠岐島も見ることができる。[神話の地「鳥上山」]出雲地方では古来「鳥上山(鳥髪山)」あるいは「鳥上峰(鳥髪峰)」とも呼ばれる。「古事記」によれば船通山の麓へ降ったスサノオは八岐大蛇を退治し、八岐大蛇の尾から得た天叢雲剣を天照大神に献上したという。
6合目あたりに「鳥上の滝」があり、八岐大蛇の住処とも言われる。高さ約10m、幅約5mの滝で、斐伊川の源流といわれ、島根名水100選に選ばれている。1936年(大正12年)には、当時の宮内省が船通山頂の島根県側に「天叢雲之剣出現地」と直刀を型どる表徴の石碑を建立している。現存する石碑は、1975年(昭和50年)8月に落雷のため、台のみを残して破損し、翌年に再建されたものである。[カタクリの群生]山頂では、春先になると一面にカタクリが花を咲かせる。里に咲くカタクリの花より1カ月ほど遅く開花し、4月中旬から5月初旬まで楽しめる。
[イチイの巨木]鳥取県側の9合目(1,000m付近)の斜面に、天然記念物に指定されているイチイの巨木がある。幹の径は約4.3m、斜面をはって伸びる枝は20m以上ある。[宣揚祭]毎年7月28日には、天叢雲剣を発見した神話にちなんだ「宣揚祭」が船通山山頂等で執り行われている。〈第1回宣揚祭〉第1回の開催は、1930年(昭和5年)までさかのぼる。鳥取県の郷土史家、内藤岩雄が、船通山(鳥髪の峯)を神域として宣揚することを発案。神域宣揚祭が同年6月22日午前11時から船通山山頂で挙行され、熱田神宮宮司代理の伊達主典、鳥取県知事の久保豊四郎らが参加した。
宣揚祭は、1940年(昭和15年)の第12回を最後に中断した。〈戦後の再開〉戦後、宣揚祭は1968年(昭和43年)に復活し、現在も続いている。開催は鳥取県側、島根県側の交互開催(持ち回り)で、須佐之男命の姿に紛して剣の舞いが勇壮に演じられる』。スサノオによる八岐大蛇の退治の神話などが関係する船通山は、古くから自然の光が封印されてきた山だと感じます。スサノオは、精霊が闇に変えられた姿、八岐大蛇は龍、天叢雲之剣は松取りの剣を暗示すると理解しています。船通山が本来の姿に成るよう意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。(つづく)