
東京大神宮のwikiに記述の中で、気になったのが「大隈重信(おおくましげのぶ)」「中山忠能(なかやまただやす)」「中山慶子(なかやまよしこ)」の3人です。この3人について追跡することにしました。大隈重信については、wikiの中で、『明治13年(1880年)4月17日、有楽町の大隈重信邸跡に落成した皇大神宮遙拝殿が当社(東京大神宮)の起源である』とあります。東京大神宮は、有楽町の大隈重信邸跡にあった皇大神宮遙拝殿が源流になっているのです。大隈重信の経歴はwikiに記載されています。『大隈重信(おおくましげのぶ・1838年-1922年)は、現・佐賀県佐賀市水ヶ江町出身の政治家・教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓。
参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)、内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)。聖路加国際病院設立評議会会長。同志社大学社友。通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。早稲田大学を創設したのちに早稲田大学高等学院、早稲田実業学校などもでてきた。官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。また、日本における女子高等教育の開拓者の1人であり、成瀬仁蔵と共に日本女子大学を創設。立教大学の発展にも携わった。
[略歴]幕末佐賀藩の上士の家に生まれて志士として活躍し、明治維新期に外交などで手腕をふるったことで中央政府の首脳となり、参議兼大蔵卿を勤めるなど明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした。明治十四年の政変で失脚後も立憲改進党や憲政党などの政党に関与しつつも、たびたび大臣の要職を勤めた。明治31年(1898年)には内閣総理大臣として内閣を組織したが短期間で崩壊し、その後は演説活動やマスメディアに意見を発表することで国民への影響力を保った。
大正3年(1914年)には再び内閣総理大臣となり、第一次世界大戦への参戦、勝利し、対華21カ条要求などに関与した。また教育者としても活躍し、早稲田大学(1882年、東京専門学校として設立)の創設者であり、初代総長を勤めた。早稲田大学学内では「大隈老侯」と現在でも呼ばれる』。大隈重信は、早稲田大学の創立者で、幕末維新に活躍した重鎮です。大隈重信については、《仲間と共に明治維新をつくった早稲田大学の創立者・大隈重信とオランダ人工作員の建学の祖・フルベッキ》の際に、光を降ろしており、「明治維新をつくった人。皆で長崎で相談してつくった」と伝えられました。
明治維新は、日本をより深い闇にするための出来事です。八咫烏鶴派・創価学会・中国・欧州・ロスチャイルドが絡む土台の純粋の闇から八咫烏亀派・統一教会・朝鮮・米国・ロックフェラーが絡む建屋のエゴの闇に切り替えるための時期だったと捉えています。日本をより深い闇の時代に変えるために成された支配層の大規模工作の明治維新の象徴的事象が、明治天皇のすり替えです。《孝明天皇が関与した明治天皇のすり替えと裏天皇の成立による日本の暗闇の仕組》には、天皇のすり替え説について言及しています。『明治天皇のすり替え説と裏天皇について、個人的には、孝明天皇は殺されたのではなく、意図的に裏に回ったと見ています。
落合莞爾のWikiwandには、「幕末に偽装死した孝明天皇と睦仁親王が、以降の政体天皇を周防国田布施にいた護良親王の後裔である大室寅助(大室寅之祐)に任せて明治天皇とし、京都堀川の本圀寺内に極秘造営された堀川御所に入られた。明治、大正、昭和、平成の政体天皇とは別に、孝明天皇、睦仁親王から現在まで続く裏の皇統を称して、"京都皇統"と落合が著作物内において便宜的に呼称した。なお、本圀寺は、1971年に、堀川から山科へ移転している』と記されています。孝明天皇は、本来の明治天皇になるべき睦仁親王と共に偽装死として裏に潜んだのです。
そして、表の天皇を田布施の大室寅助にすり替えて明治天皇にされました』。大隈重信は、明治天皇のすり替えなどの明治維新を仲間と協力して遂行していった中心人物だと理解しています。明治維新の明治天皇のすり替えに深く関わったと思われる人物が「中山忠能」とその娘(二女)で明治天皇の生母とされる「中山慶子」です。東京大神宮のwikiには、『本神社落成時、通りを隔てて中山忠能邸があり、前年12月7日より明宮嘉仁親王(明治天皇第三皇子、後の大正天皇)が生活していた』と記されています。中山忠能の経歴はwikiに記載されています。
『中山忠能(1809年-1888年)は、江戸時代後期の公家、明治時代の日本の政治家、華族。位階勲等爵位は、従一位大勲位侯爵。明治天皇国母中山慶子の父にあたり、維新期に孫の明治天皇を補佐して倒幕に貢献し、明治政府において議定や神祇伯などを歴任した。華族の侯爵にも列した。[生涯]文化6年(1809年)11月11日、羽林家の中山忠頼の子として生まれる。天保11年(1840年)、参議となる。この年亡くなった光格上皇に対する諡号復帰の問題で、1人反対論を唱えて注目される。弘化4年(1847年)、権大納言となる。
嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航して通商を求めた際には攘夷論を主張した。条約締結を巡り、関白の九条尚忠を批判する。安政5年(1858年)、江戸幕府老中の堀田正睦が上洛して条約の勅許による許可を求めた際には、正親町三条実愛らと共にこれに反対。公家総勢88名での抗議活動を実施し、これらもあって最終的に条約締結の勅許は下らなかった(廷臣八十八卿列参事件)。その後、議奏となる。公武合体派の公家として万延元年(1860年)、孝明天皇から和宮と14代将軍・徳川家茂の縁組の御用掛に任じられた。
その経緯から翌文久元年(1861年)、和宮の江戸下向に随行するが、これが尊皇攘夷派からの憤激を生み、文久3年(1863年)1月に正親町三条とともに議奏を辞任した。だが八月十八日の政変によって赦免され、正親町三条、阿野公誠とともに議奏再任を命じられるも、三人はこれを固辞したため、「議奏格」にとどまった。だが実際には、後述する二人の息子の尊王攘夷運動が問題視されたことや、痔がひどくなったことから出仕せず、議奏格の任務を行わなかった』。明治天皇の生母とされる中山慶子の経歴はwikiに記されています。
『中山慶子(1836年-1907年)は、孝明天皇の典侍で、明治天皇の生母。号は中山一位局など。大正天皇の祖母、昭和天皇の曽祖母にあたる。権大納言・中山忠能の次女で、母は権中納言・園基茂の養女(松浦靜山の十一女)・愛子。侯爵を授けられた中山忠愛は長兄。天誅組の主将・中山忠光は同母弟。従一位勲一等。[生涯]天保6年11月28日(1836年1月16日)、京都石薬師(御所の東北)の邸に生まれ、八瀬(現京都市左京区八瀬)に里子に出されて育つ。17歳で典侍御雇となって宮中に出仕し、名を安栄(あえ)と賜る。
孝明天皇の意を得て懐妊し、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、実家中山邸において皇子・祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)を産む。家禄わずか二百石の中山家では産屋建築の費用を賄えず、その大半を借金したという。祐宮はそのまま中山邸で育てられ、5歳の時に宮中に帰還し慶子の局に住んだ。その後、孝明天皇にほかの男子が生まれなかったため、万延元年7月10日(1860年8月26日)、勅令により祐宮は准后女御・九条夙子(英照皇太后)の「実子」とされ、同年9月28日、親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。慶応3年(1867年)1月9日、睦仁親王が践祚。
同年4月、慶子は病のため辞していた典侍に再任される。慶応4年(1868年)8月4日、従三位及び食禄五百石と屋敷地を賜わり、翌々年9月7日、さらに従二位に叙せられた。明治3年(1870年)9月、遷都に伴い東京に移住。明治12年(1879年)に生まれた嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育掛となり、同22年(1889年)まで親王の養育を任せられた。同年正二位。明治維新による女院号廃止のため院号宣下は無かったが、国母として相応に厚遇された。明治33年(1900年)1月15日、大患により従一位に昇叙。同17日、人臣で初めて勲一等宝冠章を授けられた。明治40年(1907年)10月5日、東京青山南町の邸にて薨去。享年73。豊島岡墓地に埋葬される』。
中山忠能、中山慶子の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「ロスチャ。いや違う半島」「宇宙人。プレアデス」と伝えられました。プレアデスの宇宙人は、分離の闇を司るために、朝鮮半島やヘビに深く絡んでいます。中山忠能、中山慶子の父子は、共に半島工作員の役割だったと見ています。明治維新が、八咫烏鶴派・創価学会・中国・欧州・ロスチャイルドが絡む土台の純粋の闇から八咫烏亀派・統一教会・朝鮮・米国・ロックフェラーが絡む建屋のエゴの闇に切り替えるための支配層の大規模工作だと考えると符合しており、頷ける結果だと感じます。また、東京大神宮が明治維新と深く関係していることが分かります。(つづく)