JNC_Minamata


現在のチッソ㈱は、水俣病の補償業務を専業とした事業持株会社となっており、従来の事業部門を子会社のJNC㈱に移管しています。JNC㈱は、毎年度、約80億円の配当金を株主のチッソに支払い、チッソは、この配当金を原資として水俣病関連の補償と公的借入金の返済を行っています。JNC㈱の情報はwikiに記載されています。『JNC株式会社は、日本の化学メーカーである。チッソ株式会社の完全子会社。2011112日にチッソの子会社として設立された後、同年331日にチッソから事業譲渡を受けて翌41日に営業を開始した。

 

[事業]チッソの事業再編計画に基づき、チッソの事業のうち、水俣病補償業務(患者センターなど)以外の全部の譲渡を受け、化学品の製造販売の事業を行っている。事業譲渡により、チッソの子会社・関連会社はJNCの子会社・関連会社となり、チッソ本体の従業員約810名のうち約700名はJNCに転籍となった。水俣病の患者団体は、この事業譲渡を責任負担義務の切り離しであると批判した。[拠点]JNCの本社は東京都千代田区大手町の「新大手町ビル」に入居しており、これはチッソの東京本社と同じである。

 

JNCの大阪事務所は大阪市北区中之島の「中之島ダイビル」に入居しており、これはチッソの大阪事務所、チッソと同根の旭化成の大阪本社と同じである。なお、登記上本店はチッソや旭化成とは異なり、新大手町ビルにある。また、JNC本体の製造拠点は熊本県水俣市の水俣製造所である。[計画]チッソの事業再編計画によると、JNCグループは毎年度250億円(2011年度)から280億円(2014年度)の連結経常利益を計上し、その中から毎年度80億円程度の配当金を株主であるチッソに支払う。

 

当面、チッソはこの配当金を原資として水俣病関連の補償と公的借入金の返済を行う。将来的には、チッソは環境大臣の承認を得てJNCの株式を売却し、売却代金で公的借入金を完済するとともに、補償業務を引き継ぐ別法人(水俣病被害者救済支援財団)に賦課金を納付することが予定されている』。公式サイトによると、JNCの代表取締役社長 社長執行役員は、浅野進(あさのすすむ)です。経歴は《日本経済新聞》によれば、『浅野進氏(あさの・すすむ) 84(59)東京経済大経卒、チッソ入社。19JNC取締役常務執行役員。東京都出身。62歳』と記されています。

 

JNCの本社は、チッソ本社と同じ「東京都千代田区大手町2丁目2-1 新大手町ビルヂング」に所在します。JNCの代表取締役社長 社長執行役員・浅野進に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「創価」と伝えられました。やはり、支配層の創価工作員の役割のようです。個人的には、水俣病という公害病は、深い暗闇にするための支配層による大規模工作だと捉えています。岐阜県の神岡鉱山のカドミウムが原因とされる「イタイイタイ病」は、関係者のワークから支配層による大規模工作だと推測しています。

 

詳細については、《ワークから支配層のグルの構図の大規模工作が浮かぶ神岡鉱山の亜鉛精錬を原因とする「イタイイタイ病」》に記しています。一般大衆に真実を隠して裏の金儲けをする工作としての公害病だったと見ています。有機水銀が原因とされる「水俣病」もまた、「イタイイタイ病」と同じく支配層による大規模工作だと推測しています。水俣病の直接的な関係者について追及する前に、チッソ㈱の要人で着目したのが、チッソ元社長の江頭豊(えがしらゆたか)です。江頭豊は、皇后雅子の母方の祖父です。

 

19565月に表面化した水俣病の加害者のチッソの社長に就いていた親族がいる家系から皇太子(現・天皇)の后を迎い入れることは、客観的には不可解だと感じます。そこには、何らかの工作がある故の事だったと推察します。江頭豊の経歴はwikiに記載されています。『江頭豊(1908-2006)は、東京市赤坂区(現・東京都港区)出身の実業家。銀行家。日本興業銀行常務取締役。チッソ社長(196412-19717)。皇后雅子の祖父。[経歴]父は海軍中将の江頭安太郎、母は現・海城学園設立者の古賀喜三郎の娘・米子。

 

海城中学、旧制松本高校を経て、1933(昭和8)東京帝国大学法科を卒業後、日本興業銀行へ入行。1946(昭和21)資金部長、1949(昭和24)人事部長、1951(昭和26)融資第三部長、1955(昭和30)中小企業金融公庫理事を歴任。1958(昭和33)、日本興業銀行に戻り取締役。1961(昭和36)常務取締役(大阪支店長兼任)1962(昭和37)、日本興業銀行をメインバンクとし、水俣病問題と労働争議による長期ストライキにより経営不振に陥っていた新日本窒素肥料の立て直しのため、中山素平頭取の意向で同社の専務取締役として派遣された。

 

1964(昭和39)12月、新日本窒素取締役社長に就任。1965(昭和40)1月、同社は「チッソ」に社名変更。経済同友会幹事。1970(昭和45)1128日と1971(昭和46)526日に開かれたチッソ定時株主総会は一株運動との対決で大きな混乱を生じた。江頭は総会混乱の責任を取り、19717月に辞意を表明。同年727日の取締役会で、社長を退任し、会長に就任した。1973(昭和48)5月、チッソ会長を退任し、相談役に就任。2004(平成16)10月から妻・寿々子と共に静岡県富士市の病院に入院(同年11月に妻が死去)

 

2006(平成18)924日、病院で死去。98歳没。[家族・親族]皇后雅子の母方の祖父であり、愛子内親王の曽祖父にあたる。晩年には「愛子さまが天皇になる夢を見たんだよ」と語っていたと報じられた』。チッソ元社長の江頭豊の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「反社」と伝えられました。やはり、裏世界に絡む支配層の工作員の役割だったと感じます。支配層による大規模工作は、非常に巧妙です。水俣病は、原因とされるメチル水銀(有機水銀)と戦わせて利益を得るという八咫烏の手法がポイントになると感じます。(つづく)