
水俣病についての簡略的な情報は、チッソ-wikiに記されています。『1932年からチッソの水俣工場が触媒として使用した無機水銀の副生成物であるメチル水銀を含んだ廃液を海に無処理でたれ流したため、水俣病を引き起こした。1960年代に電気化学から石油化学への転換が遅れたことに加え、1962年7月から翌1963年1月まで続いた労働争議の影響で製品の販路を失うなど経営状態が悪化し、1965年には無配になった。水俣病裁判での敗訴後は被害者への賠償金支払い、第一次オイルショックなどにより経営がさらに悪化。債務超過・無配継続により1978年に上場を廃止した。
その後株式は店頭管理銘柄となり、制約つきで流通していた。2009年3月に到り、「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」(以下特措法)が衆議院に提出され、7月8日に国会で成立した。この救済は、2010年5月から2012年7月まで申請を受け付け、2014年8月29日にその判定が完了し、該当と判断された被害者に一時金支払いが2010年10月から実施されている。[水俣病関連]・少なくとも1953年頃より、水俣湾周辺の漁村地区などで猫などの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった。
・1956年5月1日、新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。これが後に水俣病の最初の公式認定となる。当時の社長は白石宗城。戦後復興期でアセトアルデヒド生産が激増。1951年社長就任以来、猫など動物の狂死、漁獲の激減、水俣病の発生、患者の公式確認となったが、その後も量産体制継続。1958年、社長は吉岡喜一に交替。・後年、1951年のチッソでのアセトアルデヒド生産方法の変更が、水俣病発生の要因との研究結果が公表。
・1959年7月22日、熊本大学医学部水俣病研究班が水俣病の原因物質は有機水銀であると公表した。・1970年11月28日、株主総会を大阪厚生年金会館(現・オリックス劇場)で開催。会場正面入口近くに配置された特別防衛保障の警備員により、株式を取得して総会に出席しようとする水俣病患者・家族・支援者(1株株主)の入場を妨害した。会場に入場できた1株株主の発言も総会屋の野次で妨害した。総会は5分で閉会したが、続く株主懇談会では一株株主らの抗議の中、江頭社長が引きずりだされステージの床に正座させられ「わび状」を読まされる場面もあった。
総会前の11月13日、「一株運動」について、当時のチッソ専務は「株主総会に出席する趣旨が反体制運動とか政治的なことだったら違った方法をとらざるを得ない」「一株運動を封じるために総会屋を雇うようなことはしない」と発言していた。・1976年5月4日、熊本地方検察庁が、社長の吉岡喜一と元工場長の西田栄一を7人の被害者(当時6人死亡・1人生存)に対する業務上過失致死傷罪で熊本地方裁判所に起訴した。事件は2人が1958年から1960年までに工業廃水を水俣川河口海域に排出し、7人を水俣病に罹患させたこととされた。
裁判での最大の争点は公訴時効であり、胎児に対する傷害を含め公訴時効の起算点について争点となった。・1979年3月22日、熊本地裁は、2人の被害者に対する業務上過失致死傷罪を認めた上で5人の被害者に対する業務上過失致死傷罪については公訴時効が成立するとして免訴とし、2人の被告に禁固2年執行猶予3年の有罪判決を言い渡した。1988年に最高裁は観念的競合における公訴時効期間の算定について本件では全部を一体として観察すべきものと解するのが相当として、7人の被害者について業務上過失致死傷罪を認めた上で有罪判決が確定した。
・1972年1月7日、水俣病の患者・その家族らが、マスコミ関係者ら(写真家のユージン・スミスを含む)を伴って千葉県市原市五井にある五井工場を訪問した際、企業側労働組合の組合員から殴る蹴るの暴行を受けたとされるが、本件について刑事責任を問われた者はいない』。水俣病の発見者は、新日本窒素肥料(現・窒素)水俣工場附属病院長の細川一(ほそかわはじめ)です。イタイイタイ病の時と同じ、医師でした。《ワークから支配層のグルの構図の大規模工作が浮かぶ神岡鉱山の亜鉛精錬を原因とする「イタイイタイ病」》にありますが、イタイイタイ病の発見者で命名者は、地元・富山県婦中町(現・富山市)の開業医である萩野昇です。
水俣病の発見者である細川一の経歴はwikiに記載されています。『細川 一(1901年-1970年)は、愛媛県西宇和郡三瓶村(現・西予市)出身の医師、医学者。新日本窒素肥料株式会社(後のチッソ株式会社)水俣工場附属病院長であり、水俣工場が引き起こした水俣病の症状を公式に発見した医師である。[来歴・人物]岡金太郎の長男として生まれる。旧制愛媛県立宇和島中学校、旧制佐賀高等学校を経て、1927年、東京帝国大学医学部を卒業。1936年、日本窒素肥料株式会社に入社。朝鮮咸鏡北道慶興郡(現在の北朝鮮)にある阿吾地工場の附属病院長に就いた。1941年、水俣工場附属病院長に就任。その後軍医としてビルマに赴任した。
1947年に復員し、水俣工場附属病院長の職に戻る。1950年、財閥解体により日本窒素肥料は新日本窒素肥料となった。1956年5月1日、「原因不明の中枢神経疾患の発生」を水俣保健所に報告。この日が水俣病公式確認の日とされる。1957年5月、猫に水俣工場廃液を与える実験を開始。1959年10月6日、廃液を投与され続けた「猫400号」が運動失調の症状を示すことを確認し、工場責任者に報告した。細川は水俣病の原因は工場廃液と確信するが、会社の説得によってこれを公表できなかった。1962年、新日本窒素肥料を辞め、愛媛県に帰郷。
1969年春、合化労連新日窒労組執行委員長の岡本達明は、新潟水俣病訴訟弁護団幹事長の坂東克彦にメーデーの挨拶を依頼。ほどなくして坂東は石牟礼道子から、「水俣に来る途中、愛媛の細川先生のところに立ち寄って、先生の手元にある猫実験のノートの内容を確認してほしい。今それができるのは坂東さんしかいない」との葉書を受け取る。4月末、坂東の訪問を受けた細川は、「猫400号実験」に関するノートを坂東に見せた。1970年5月、肺ガンのため癌研究所附属病院(東京都豊島区)に入院。水俣病裁判弁護団は、裁判長、弁護士が共に入院先の病室に赴いて尋問する臨床尋問をおこなうことを決定。
細川の体調を鑑みて、病院側からは、一度きりの尋問しか許可されなかった。同年7月4日午前10時20分から2時間、臨床尋問を受ける。「猫400号実験」について会社側(技術部)も知っていたと証言。10月13日、肺癌のため死去。69歳没』。細川一は、日本統治下の現・北朝鮮の阿吾地工場の附属病院長に就いており、軍医として日本軍の任務を成しており、松取り(松果体収穫)の実務を行っていたと推測されます。日本窒素肥料(現・チッソ)の創業者の野口遵は、1930年代、日本軍と共に中国・満州・朝鮮で発電所・ダム建設などの松工作事業を展開していました。
典型的な支配層の松工作例は、工事や工場での労働者を犠牲にした松取りです。慶興郡-wikiには、『日本の統治下にあった1930年代以降、阿吾地炭鉱をはじめとする鉱工業開発が進められた。日本窒素肥料の阿吾地工場がつくられ、人造石油の製造が試みられた。阿吾地には技術者とその家族など日本人居留者も多かった』と記されています。水俣病の実質的な発見者である新日本窒素肥料水俣工場附属病院長・細川一の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「プレアデス」と伝えられました。やはり、闇の叡智を有するプレアデス人が憑いた工作員の役割を担っていたようです。(つづく)