
水俣病の関係者として、水俣病の実質的な発見者である新日本窒素肥料(現・チッソ)水俣工場附属病院長の細川一の次に着目したのが、新潟水俣病訴訟弁護団幹事長の坂東克彦(ばんどうかつひこ)と環境運動家の石牟礼道子(いしむれみちこ)です。2人は、水俣病の実質的な発見者の細川一と深く関係していました。細川一-wikiには次のような記述があります。『1969年春、合化労連新日窒労組執行委員長の岡本達明は、新潟水俣病訴訟弁護団幹事長の坂東克彦にメーデーの挨拶を依頼。ほどなくして坂東は石牟礼道子から、「水俣に来る途中、愛媛の細川先生のところに立ち寄って、先生の手元にある猫実験のノートの内容を確認してほしい。
今それができるのは坂東さんしかいない」との葉書を受け取る。4月末、坂東の訪問を受けた細川は、「猫400号実験」に関するノートを坂東に見せた。1970年5月、肺ガンのため癌研究所附属病院(東京都豊島区)に入院。水俣病裁判弁護団は、裁判長、弁護士が共に入院先の病室に赴いて尋問する臨床尋問をおこなうことを決定。細川の体調を鑑みて、病院側からは、一度きりの尋問しか許可されなかった。同年7月4日午前10時20分から2時間、臨床尋問を受ける。「猫400号実験」について会社側(技術部)も知っていたと証言』。
坂東克彦の経歴はwikiに記載されています。『坂東克彦(1933年-2020年)は、新潟県小千谷市出身の弁護士。新潟水俣病第1次訴訟の弁護団幹事長。新潟水俣病第2次訴訟の弁護団長などを務めたことで知られる。元日本弁護士連合会常務理事。[人物]新潟県立小千谷高等学校、中央大学法学部卒業。1959年に弁護士を開業し、1963年に新潟市で坂東克彦法律事務所を開設した。長年新潟水俣病訴訟で中心的な役割を担い、1967年提訴の第1次訴訟に弁護団幹事長として参加。四大公害病で初めて原因企業を訴えた。
1971年9月29日の新潟地裁判決で昭和電工の過失責任を認めさせ、原告を勝訴に導いた。1982年提訴の第2次訴訟で1995年まで弁護団長を務めた。2003年秋の叙勲で旭日小綬章を受章。2020年7月15日17時40分、老衰のため、新潟市中央区の高齢者入居施設で死去。87歳没。死没日をもって、従五位に叙される』。新潟水俣病訴訟弁護団幹事長の坂東克彦の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。やはり、国から勲章を授与されており、支配層の工作員の役割だったようです。坂東克彦は、新潟水俣病の第1次訴訟の弁護団幹事長、第2次訴訟の弁護団長を務めました。
新潟水俣病(第二水俣病)は、日本の化学工業会社である昭和電工(現・レゾナック・ホールディングス)の廃液に含まれる有機水銀汚染の食物連鎖で起きた水銀中毒、公害病です。第二次大戦後の日本における高度経済成長期の負の側面である四大公害病(水俣病・新潟水俣病・四日市ぜんそく・イタイイタイ病)の一つであり、1965年(昭和40年)に確認されました。四大公害では最も発生は遅かったですが、訴訟は最も早く提起されました。1967年(昭和42年)6月12日、患者3世帯13人が、昭和電工を相手取って総額約5億3000万円の損害賠償を求める訴えを新潟地裁 に起こしたのが最初の訴訟です。
昭和電工の創業者は、森コンツェルンの創設者の森矗昶(もりのぶてる・1884年-1941年)です。森矗昶は、チッソの創業者の野口遵、日産自動車に繋がる日産コンツェルンの創業者の鮎川義介と共に、当時「財界新人三羽烏」として並び称されていました。森矗昶、野口遵、鮎川義介などの実業家は、工作員の役割として表の事業を隠れ蓑にして、裏の人命を犠牲にした金儲けである松利権を拡大していったと見ています。表裏のビジネスを展開していったのです。そういう意味では、野口遵と森矗昶が各々創業したチッソと昭和電工が水俣病の加害者になったことは、決して偶然ではないと見ています。
グルの構図である支配層の工作と捉える方が理解しやすいと感じます。水俣病が支配層の大規模工作と仮定すると、その目的は何か、ということになります。支配層は、1つの工作で幾つものメリットが得られるようにしています。まずは、松取りを含めた金儲けになることです。もう1つは、水銀(有機水銀)が有毒であることを一般大衆に浸透させることができることです。これは非常に大きな暗闇の要因となります。過去のヒプノセラピー《高度なテクノロジーを使った支配層の松果体製品工場》では、支配層は、ハイテク技術を利用して松果体製品工場を稼働させていることを伝えられました。
この松果体製品工場のエネルギー源がフリーエネルギーとも言える「水銀」だというのです。『現代の屠殺場では見られないテクノロジーを使っている。自分たちの利益のために使っている。灯台がそれです。無限の動力源が灯台であって、水銀を使っている。レッドマーキュリー。赤水銀」と伝えられたのです。現実世界に起きている一般大衆には、水銀は毒物だと周知、洗脳するためだったと見ています。一方で、支配層は、自分の松製品工場では、水銀をエネルギー源としてハイテクを利用しているのです。
新潟や熊本で起きた有機水銀が原因とされる水俣病は、支配層の工作と感じます。水俣病によって製造中止になった「赤チン(マーキュロクロム液)」は有効な薬品だった可能性を感じます。《東京新聞デジタル》には、赤チンが禁止された理由が記述されています。『三栄製薬も月に10万本を出荷していた。 赤チンは製造過程で、人体に影響が出ない量だが、水銀を含んだ廃液が出る。今月31日以降、水銀を使った製品の製造を規制する「水俣条約」で、赤チンも蛍光灯や電池とともに規制対象となるため、三栄製薬は製造終了を決めた。2020/12/24』。
水俣病の実質的発見者の細川一に関係した、もう1人の人物が石牟礼道子です。経歴はwikiに記されています。『石牟礼道子(いしむれみちこ・1927年- 2018年)は、熊本県天草市出身の小説家・詩人・環境運動家。主婦として参加した研究会で水俣病に関心を抱き、患者の魂の訴えをまとめた「苦海浄土ーわが水俣病」(1969年)を発表。ルポルタージュのほか、自伝的な作品「おえん遊行」(1984年)、詩画集「祖さまの草の邑」(2014年)などがある。2018年2月10日午前3時14分、石牟礼道子は死去した。
息子の道生、妹の紗子、姪のひとみ、道子の介護歴のある大津円が見守る中、パーキンソン病による急性増悪のため、熊本市の介護施設で死去。90歳だった。4月15日には送る会が開かれ、上皇后も参列し、「日本の宝を失いました」と道生に述べた』。故・石牟礼道子の送る会に、上皇后が参列したことが、石牟礼道子がいかに重要な支配層の役割を成していたかが、分かります。石牟礼道子の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「中国朝鮮族」と伝えられました。八咫烏鶴派に重きを置く同和派工作員の役割を担っていたと捉えています。(つづく)