
水俣病の被認定者数と水俣病患者の補償について、ネットで調べました。水俣病の被認定者数(2022年12月末時点)は、28,364人です。《環境省公式サイト》には、『水俣病の認定は、公害健康被害補償法に基づき行われており、2020年10月末までの被認定者数は、2,998人(熊本県1,790人、鹿児島県493人、新潟県715人)で、このうち生存者は、457人(熊本県246人、鹿児島県82人、新潟県129人)となっています』と記されています。また、《環境省公式サイト》の情報には、『2022年12月末時点の被認定者数は28,364人です。
なお、1988年3月をもって第一種地域の指定が解除されたため、旧第一種地域では新たな患者の認定は行われていません』とあります。水俣病患者の補償については、1,600万円~1,800万円です。《一般財団法人水俣病センター相思社公式サイト》には、『Aランク 1,800万円(一時金) 177,000円/月 Bランク 1,700万円(一時金) 95,000円/月 Cランク 1,600万円(一時金) 71,000円/月』と記載されています。また、《患者の補償はどうなっているのですか?》には、『1973年(昭和48)3月水俣病裁判で患者勝利の判決があり、その後の交渉をもとに、同年7月患者とチッソの間に補償協定が結ばれました。
この協定によって、認定患者に対し
チッソから慰謝料として1,600~1,800万円の一時金が支払われています』とあります。次に、水俣病関連の団体について調査とワークを進めました。《チッソ株式会社公式サイト》に「救済一時金支払いを(2010年)10月1日から開始」のニュースリリースが掲載されており、『一時金支払いに関します事務(一時金給付申請書受理からお支払いまで)につきましては、当社の委託により、指定支給法人である一般財団法人「水俣病被害者救済支援財団」が行います』と記されていました。
一般財団法人「水俣病被害者救済支援財団」についてネットで調べていきましたが、不思議なことに、代表者や役員などの詳細情報が見つかりませんでした。しかし、ネットには一般財団法人
水俣病被害者救済支援財団の住所がありました。グーグルマップで調べると「水俣市企業支援センター」の表示場所やグーグルマップでは「チッソ労働組合水俣支部」の表記の建物でした。このことから、水俣病被害者救済支援財団は、チッソまたは水俣市の関係だと見ています。ネット検索の過程で、水俣病被害者救済支援財団の代わり「一般財団法人
水俣病センター相思社」がヒットしたので、追跡することにしました。
一般財団法人 水俣病センター相思社の公式サイトには、《組織概要》と《相思社がめざすもの》が書かれています。『[組織概要]設立目的:この法人は、水俣病被害者に係る問題について相談に応じ、その解決を図るとともに、水俣病事件に関する調査研究を推進し、その成果の普及・活用に努めることを目的とする。(一般財団法人水俣病センター相思社) 設立:1974年4月7日 理事長:緒方俊一郎 常務理事:永野三智 理事:安藤聡彦 牛島佳代 遠藤邦夫 遠藤寿子 川本愛一郎 谷由布 成瀬裕 評議員:大澤菜穂子 緒方正実 中村雄幸 田中利和 向井良人 村上文世 若木浩一
監事:近藤 経久 関
輝明 相談役:荒木洋子 富樫貞夫 松﨑重光 松村守芳』。『[相思社がめざすもの]水俣病多発地から丘を少し登ったところに相思社があります。眼下には不知火海がゆったりとたたずんでいます。半世紀ほど
前、不知火海に面した漁村に得体の知れない病気が発生しました。病に冒された人々は近隣の人々のさげすみの目を避けるようにひっそりと暮らしていました。 なぜ、罪科のない人々が理不尽な苦しみを強いられなければならなかったのでしょうか。水俣病事件は一企業の犯罪にはとどまりません。便利で豊かな生活を追い求めるという、ごく当たり前とされる行為が歴史の必然として産み落とした事件でした。
水俣病患者は歴史の、人間の欲望の犠牲者だったのです。半世紀を経た今も人々は便利さ・豊かさという呪縛から解き放たれてはいません。水俣病事件は人間のあり方を根元的に問い続けています。水俣病事件の真実と意味を明らかにすることは人類の未来にとって重要な意味があります。相思社はそのために努力を続けています』。相思社は、水俣病患者側に立って支援する団体であり、同和の闇が絡んでいると見ています。表面上、加害者側のチッソと被害者側の水俣病患者が戦う工作で利益を得る構図です。水俣病センター相思社の初代世話人(初代事務局長)は、柳田耕一です。
《水俣病歴史考証館の生成史;柳田耕ーが描いた青写真》には『考証館の構想を立てたのが相思社初代世話人(代表)・柳田耕一 (1950-) である。・・柳田は相思社設立から1989年の改組に伴う退職までの約15年間相思社で活動し、10 年以上に渡り世話人を務めた』と記されています。柳田耕一の経歴は《登壇者プロフィール》に記されています。『柳田耕一(やなぎだこういち):1950年熊本市生まれ。東京農大時代に水俣病患者支援運動に参加し、1973年に東京農大を中退し水俣市へ移り住む。日本初の市民運動型財団・水俣病センター相思社の設立運動に参加し、1974 年の設立と同時に初代の事務局長に就任。
以来、水俣現地に於いて、未確定の水俣病患者掘り起こし運動や裁判支援に関わる他、有機農業運動やフリースクール運動を立ち上げる。現在は複数のNGOに参加して、タンザニア、ベトナム、モンゴルでの環境問題を通じた国際交流にコミットし、これまで100回以上に渡り、植林や環境問題調査目的で多くの国を訪問しNGO や市民と交流し、ミナマタの経験を伝える活動を行ってきている。現職:特定非営利活動法人
地球緑化の会 副会長兼事務局長、モンゴル国ダルハン農業大学名誉教授、株式会社ティエラコム監査役』。
相思社の初代世話人(初代事務局長)・柳田耕一に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。個人的には、タンザニア、ベトナム、モンゴルなどの途上国で活動しているので、松利権の闇が潜んでいると見ています。一般財団法人
水俣病センター相思社の役員として理事長、常務理事と理事1名、評議員1名を調査とワークの対象に選びました。相思社の理事長・緒方俊一郎の経歴は《日本医師会 赤ひげ大賞》に記されています。『緒方俊一郎(おがた・しゅんいちろう) 医療法人仙寿会緒方医院院長。昭和16年、熊本県相良村生まれ。77歳。44年、九州大学医学部卒業後、46年に同医院の6代目を継承。
特別養護老人ホームやグループホームなど介護施設も運営する。球磨郡医師会会長や、熊本県医師会理事などを歴任。村の嘱託医や校医などを長年務め、行政にも助言する』。理事長は、医師で院長であり、老人福祉施設も運営していることから支配層の松利権の闇が絡んでいると推測します。相思社の理事長・緒方俊一郎に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「創価」と伝えられました。やはり、支配層・八咫烏の胴元工作組織の創価学会の工作員の役割のようです。一般財団法人
水俣病センター相思社の常務理事・永野三智、理事:安藤聡彦、評議員・大澤菜穂子、本部所在地(熊本県水俣市袋34(水俣病歴史考証館も同住所))に闇の解除・統合を意図して光を降ろしました。
「工作員。創価」「半島工作員」「半島」「いいです」と伝えられました。八咫烏鶴派(中国・創価)と亀派(朝鮮・統一)の工作員が混在しており、団体は同和派の役割だと感じます。水俣病センター相思社公式サイトには、原田正純(医師・故人)が《相思社に寄せて ~設立の趣旨を忘れず、新しい創造の拠点を》の紹介文を記しています。原田正純の経歴はwikiに記されています。『原田正純(はらだまさずみ・1934年-2012年)は、鹿児島県さつま町出身の医師。学位は医学博士。[人物]ラ・サール高校、熊本大学医学部卒業。熊本大学医学部で水俣病を研究し、胎児性水俣病も見いだす。
水俣病と有機水銀中毒に関して数多くある研究の中でも、患者の立場からの徹底した診断と研究を行い、水俣病研究に関して詳細な知識を持った医師でもあった。熊本大学退職後は熊本学園大学社会福祉学部教授として環境公害を世界に訴える。1972年6月、スウェーデンのストックホルムで開催された「国際連合人間環境会議」に環境学者の宇井純、水俣病患者の濱元二徳、坂本フジエ、坂本しのぶらと出席。水俣病の存在はニュースなどにより世界に広まり、これがきっかけとなって各国は水銀の調査を始めた。
成田空港問題の解決を目指した隅谷調査団への参加を打診されたことがあるが、「熊本からでは遠すぎる」として断っている。1989年、「水俣が映す世界」(日本評論社)で大佛次郎賞を受賞。2001年、吉川英治文化賞受賞。2010年、朝日賞受賞。2011年、KYOTO地球環境の殿堂入り。2012年6月11日、急性骨髄性白血病のため熊本市内の病院から退院後自宅にて死去。77歳』。原田正純は、医師として水俣病の研究者であり、水俣病を世界に知らしめる役割を成した人物でした。原田正純の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「創価」と伝えられました。創価工作員の役割を担っていたようです。(つづく)