
大阪道頓堀雑居ビル火災の現場となるイナカ会館などのビルとその周辺をグーグルマップ調べていると、急に睡魔に混じって、軽い吐き気とめまいが生じました。すぐに、首の後ろを意図して光を降ろしました。闇のエネルギー体は、光のエネルギーが出る首の後ろから入ってきます。本来は、首の後ろから光が出て光の柱が立つところになります。首の後ろが冷たくなったり、霊的な不調を感じた時には、純粋な祈りを通じて光を降ろして首の後ろから体全体に光を通すことをしています。この不調の状況は、過去にも幾度か経験していました。
《富士山の深い闇の地底と繋がっていた小渕優子の写真を見て体調不良になった原因の死霊の憑依》にありますが、小渕優子の写真を見た時に急変して著しい体調不良になった時と同じでした。原因は、「死霊」です。昔、亡くなった人たちの魂が闇の状態になって地上や地下に留まっていることを示唆していました。それは、別の表現では、闇の精霊が多く存在することを意味します。大阪道頓堀雑居ビル火災の現場となる道頓堀の周辺には、亡くなった人たちの魂が留まっていると感じました。それ故に、道頓堀一帯に留まっている御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。
昔から道頓堀を開削した時に、密かに松取りが行われた可能性を感じます。《現在の人工河川・創成川の起源となる大友堀の隠された闇で封印された龍のエネルギーの「伏籠川」》などの記事にありますが、古くから支配層は、治水工事や干拓などの水の場所の工事の際に、労働者を犠牲にした松取りを行ってきたのです。現実的には、松取りという裏の金儲けですが、エネルギー的には、水が流れる川を闇にして闇を広げることを目的としています。北海道・札幌市を流れる創成川は、船で松を運搬するために創った人工河川です。大阪は水の都であり、支配層の松運びのための水路を創る必要があったと感じます。
大阪・道頓堀の歴史を調べる必要がありました。道頓堀の情報はwikiに記載されています。『道頓堀は、大阪府大阪市中央区の繁華街および町名。または、同所の北を流れる道頓堀川の略称。町名は道頓堀一丁目と道頓堀二丁目があり、一丁目の堺筋以東は街区符号に「東」が付き、郵便番号も異なる。隣接する難波や千日前などとともにミナミの繁華街の中心的地区である。一部で「とんぼり」と略称される事もあるが定着しておらず、地元では略さずに「どうとんぼり」と表現している。
なお道頓堀の名前は商人で開墾者の安井道頓に由来し、日本橋北詰交差点には石碑もある。
[概要]〈繁華街〉一般的に日本橋 - 大黒橋間において、道頓堀川南岸の道頓堀通沿いに広がる繁華街を指す。なかでも戎橋以東は道頓堀五座が立地した芝居町にあたる。道頓堀通の南側に芝居小屋、北側に芝居茶屋が並ぶ構造だったため、現在も通の南側に娯楽施設、北側に飲食店が多い。大阪ミナミの東西基軸となる道頓堀通の両側町で、南は難波と千日前、北は道頓堀川を挟んで島之内の心斎橋筋や宗右衛門町に接する。飲食店が集中し、道頓堀グリコサイン、かに道楽本店、中座くいだおれビル、金龍ラーメン、なんば道頓堀ホテルなど、多種多様な看板やネオン・建物の店舗であふれている。
かつてはくいだおれや道頓堀極樂商店街もあった。道頓堀橋(御堂筋)以東が1丁目、同以西が2丁目となり、1丁目の日本橋(堺筋)以東は一般的に繁華街に含まれない。〈道頓堀川〉道頓堀川は、東横堀川の南端から西流して木津川に合流する全長約2.7kmの河川で、西横堀川より下流は西道頓堀川とも呼ばれる。川幅は西道頓堀川と呼ばれる下流側は約50m、上流側は約30m。1967年(昭和42年)に大黒橋より上流の両岸にグリーンベルトを設置。1979年(昭和54年)に噴水、1989年(平成元年)にウォーターカーテンなども設置された。
2000年(平成12年)には東横堀川水門と道頓堀川水門を設置して、高潮の防御および河川水位を一定に制御することが可能になると、親水空間としての取り組みが本格化する。2004年(平成16年)から2013年(平成25年)にかけて、日本橋- 浮庭橋(旧:桜川分岐点。湊町リバープレイス)間の両岸に「とんぼりリバーウォーク」という遊歩道が整備され、道頓堀や宗右衛門町の繁華街を川岸から楽しむことが可能になった。2012年には、開削400年となる2015年開業を目標に川に巨大な水槽を浮かべて競技大会も可能なレジャープールを作る道頓堀プール構想が発表されたが、実現しなかった』。
道頓堀は、江戸時代から松取り工作が絡む開削が成されて、闇の場所に変えられてきました。現在は、多くの人々が集める観光名所となり、子どもや女性などの人をさらうことを含めた、支配層の松利権が絡む工作拠点となっているのです。道頓堀関連のワーク対象として、道頓堀の名前の由来になった「安井道頓(成安道頓)」と道頓堀の開削者の「安井九兵衛(安井道卜)」を選びました。成安道頓の経歴はwikiに記されています。『成安道頓(なりやす どうとん・? -1615年)は、安土桃山時代から江戸時代初めにかけての人物。道頓堀の開削者として知られる。俗名は善九郎。弟に成安長左衛門がいる。
かつての通説では安井道頓(やすい どうとん)と呼ばれ、諱を成安、通称を市左衛門(または市右衛門)とされたが、成安氏出身とする説が有力となっている』。成安道頓の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「架空の人物の可能性がある」と伝えられました。《万世橋の謎の小部屋と海軍軍人の銅像が導く東京地下要塞とロスチャイルド》などの記事に書いていますが、土地を闇にする場合、真実を隠すために嘘を置くことも1つの方法となります。道頓堀の開削者である安井九兵衛の経歴はwikiにあります。『安井九兵衛(やすいくへえ・1582年-1664年)は、江戸時代の日本の資産家・治水家。
諱は定吉、号は道卜(どうぼく)。河内国の出身。大坂(現在の大阪市)に道頓堀を掘削した中心人物4名(成安道頓、安井冶兵衛・九兵衛兄弟、平野藤次郎)の一人。掘削事業は途中で中断があり、その間に成安道頓と安井治兵衛は死去、九兵衛と平野藤次郎により1615年(元和元年)に道頓堀は完成した。安井家は大坂三郷の一つである南組の惣年寄を務めた。道頓堀完成後の周辺開発は、平野藤次郎が幕官に転じたことなどにより、九兵衛に委ねられた。道頓堀東部(西横堀川以東)周囲の「川八町」と呼ばれた地域は九兵衛の支配下にあった。
1626年(寛永3年)以降、安井家はこの地域に芝居小屋を誘致し、1644年(正保元年)には8軒を数えるに至った。 そのため各芝居小屋では、安井家のために「安井桟敷」と呼ばれる特別見物席が用意されていた。九兵衛の子孫は、2代目九兵衛幽卜から明治維新を迎える9代目九兵衛道応の時に至るまで、代々九兵衛を名乗った。また、最初の日本独自の暦法による暦「貞享暦」を作成した渋川春海は、九兵衛の兄・宗順の孫になる。1914年(大正3年)、従五位を追贈された』。安井九兵衛の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「堀った人」と伝えられました。個人的には、支配層の配下の現場工作員だったと感じます。(つづく)