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光の講座の受講者の方が勤務していた兵庫県川西市の周辺に、「多田神社」や「多田」の地名があり、「たたら製鉄」が行われ、裏で松取り(松果体収穫)が成された場所だと感じました。私の故郷の静岡県伊豆の国市にも「多田」の地名があります。また、川西市には、「三ツ矢サイダー」の炭酸水の源流があるといいます。川西市の地は、有馬高槻断層帯が地下に通っている場所でもあり、本来は重要な光の場所であり、調査とワークを行うことにしました。まず、「多田」の名称の由来を探っていきました。多々良-wikiには、以下の内容が記されています。

 

『多々良(たたら)は、他に多々羅、鑪、鈩、錧、蹈鞴、踏鞴とも表記するが、「たたら製鉄」という日本の古式製鉄をさす。・多々良場 - 日本の古式製法でおこなわれる、その設備を備えた製鉄所のこと。たたら場とも表記する。・多々良を踏む - 足がもつれる。または躓く(つまづく)こと。本来は多々良場の融鉄作業の送風のための鞴(ふいご)という機器を踏む動作(踏鞴・たたら)に、似ていることの比喩から生まれた、例えとしての言葉。〈固有名詞〉日本の人名・姓名に、鑪、多田良、多々羅、多田羅、田多羅、太田良などの変種がある』。

 

たたら製鉄からの「多々良」には、「多田良」「多田羅」の姓名はありますが、「多田」の姓名の情報はありませんでした。次に、人名の「多田氏」を調べると、多田氏-wikiがありました。『多田氏(ただし)は、清和源氏の流れをくむ一族。摂津国川辺郡多田より発祥。家紋は獅子牡丹など。[概要]平安時代中期に摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成した源満仲が「多田」を号したことから始まる。その後、多田の地は満仲の長子であった頼光とその子・頼国が継承し、頼国の五男・頼綱以降、嫡流が「多田」を号した。

 

頼綱以降では馬場氏族や山県氏族といった庶流を輩出しており、嫡流にあたる多田氏の系統は清和源氏一族の最も古い所領である多田の地を200年余りに渡って相続したが、源平争乱期に惣領であった多田行綱が源頼朝に疎まれ多田荘の所領を没収されると衰退し、以後一族の動向を伝える史料は断片的なものとなっている。多田氏の衰退後、「続群書類従」収録の「多田系図」などによると源兼綱の子である源頼兼(「尊卑分脈」では源頼政の次男とされる)が多田氏を再興し、伊豆国を地盤として鎌倉幕府とも繋がりを持ったとされる。

 

この流れを伊豆多田氏と呼び、室町期には摂津国と伊豆国に領土を安堵されるが、永正年間(1504-1520)の足利将軍家家督争いで足利義稙側に付き没落したという。しかし、この伊豆多田氏については系譜や事跡に不明な点が多く実像がはっきりしていない』。兵庫県川西市の「多田」の地名や静岡県伊豆の国市の「多田」の地名は、清和源氏の流れをくむ一族の多田氏に由来するようです。多田氏の一大拠点となったのが摂津国川辺郡多田(現・兵庫県川西市多田院多田所町)であり、多田神社(多田院)です。多田神社の情報はwikiに記されています。

 

『多田神社は、兵庫県川西市多田院多田所町にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。六孫王神社(京都府京都市南区)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つ。前身は「多田院法華三昧寺」と号した天台宗のち真言律宗の寺院であり、境内は現在でも「多田院」の名称で国の史跡に指定されている。初期清和源氏の本拠地であった旧摂津国多田に鎮座する源氏一門の祖廟であり「清和源氏発祥の地」とも呼ばれる。[祭神]清和源氏興隆の礎を築いた源満仲からその曾孫・源義家までの五公を祀る。

 

・源満仲(みなもと の みつなか) 神号「正一位 多田大権現」。六孫王源経基の長男。安和の変を契機に中央政界における武門としての地位を築き、諸国の受領を歴任。二度摂津守を務めた後、郎党と共に摂津国多田に入部し原初的武士団を養成した。晩年は出家して多田院を創建した。・源頼光(みなもと の よりみつ) 満仲の長男として藤原摂関家に仕え、諸国の受領を歴任し富を蓄えた。後世、頼光四天王を従えての酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の伝説などで広く知られる。父より摂津国の地盤を継承し摂津源氏の祖となった。

 

・源頼信(みなもと の よりのぶ) 満仲の三男として兄と共に藤原摂関家に仕え諸国の受領や鎮守府将軍を歴任。武勇に優れ、平忠常の乱を平定したことにより源氏の東国進出の足掛かりを築いた。晩年、河内守を務めた後に同国に地盤を築き、河内源氏の祖となった。・源頼義(みなもと の よりよし) 頼信の長男として武に優れ、諸国の受領や鎮守府将軍を歴任しながら東国において勇名を馳せる。前九年の役を平定したことにより東国における源氏の名声を確たるものとした。・源義家(みなもと の よしいえ) 頼義の長男として誕生し「八幡太郎」の通称は広く知られる。

 

父に続き諸国の受領や鎮守府将軍を歴任し、東国における武門の棟梁的存在として後三年の役を平定した。その武威は遍く知れ渡り「天下第一武勇之士 」と称された』。川西市にある多田神社(旧・多田院)が、初期清和源氏の本拠地であった旧摂津国多田に鎮座する源氏一門の祖廟であり「清和源氏発祥の地」だとは、初めて知りました。川西市の多田神社が、清和源氏の源流の地であることは、大きな意味を持ちます。個人的には、武士は、朝廷・寺社・公家・貴族などが所有する荘園などの私有地のガードマンです。

 

実質的には、先住民などの人々を犠牲にした松取りの現場工作員だと捉えています。武士が刀剣を所有しているのは、そのためです。簡単に言えば、武士は、支配層の配下の反社・サンカの役割です。古くから、支配層の隠された松取り工作場所が、宗教施設である寺院や神社です。「清和源氏発祥の地」とされる多田神社は、昔から大きな松利権を有していたと見ています。wikiには、多田神社に16億円の根抵当権が設定された直後に、当時の宮司が急死する問題が起きていたことが記述されていました。『〈トラブル〉国の史跡となっている多田神社の約5万平米の境内に対して、総額で16億円の根抵当権が設定されていることが判明。

 

また、債権者のうちの1社の申し立てにより20249月に神戸地方裁判所尼崎支部により競売開始が決定し、それに対して多田神社が異議を申し立てていると報じられた。報道によると、20242月に急死した当時の宮司が借金の担保にしたと見られている。神社関係者は知らされておらず、契約書も残されていないとしている。登記情報から、根抵当権は4件設定されていることが判明。2023915日に京都市西京区の個人を債権者とする根抵当権極度額4億円、2023928日に京都市右京区の法人を債権者とする根抵当権極度額13千万円。

 

また、20231016日に大阪府豊中市の個人を債権者とする根抵当権極度額7千万円、2024221日に大阪府岸和田市の個人を債権者とする根抵当権極度額10億円と、最初の根抵当権設定登記がされた2023915日から2024221日の約5か月の短期間に、16億円にも及ぶ根抵当権が設定されている。最後の2024221日に10億円の根抵当権が設定された直後の2024229日に宮司が死亡している』。これは、多田神社が古くから有していた支配層の松利権の闇が浮上してきたものだと理解し、さらに追跡していきました。(つづく)