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大分県の日出生台(ひじゅうだい)演習場-wikiに、白馬に乗っている軍人の姿としての「やなせたかし」の写真が掲載されており、追跡することにしました。やなせたかしの経歴はwikiに記載されています。『やなせたかし(本名:柳瀬嵩(読み同じ)1919-2013)は、高知県出身の漫画家・絵本作家・詩人。有限会社やなせスタジオ社長。作曲家としてのペンネームは「ミッシェル・カマ」。壮年期までは「やなせ・たかし」と中黒が付された表記をされていた。「アンパンマン」の原作者として知られる。

 

社団法人日本漫画家協会代表理事理事長(20005-20126)、社団法人日本漫画家協会代表理事会長(20126-201310)を歴任。絵本作家・詩人としての活動が本格化する前までは頼まれた仕事はなんでもこなしたといい、編集者・舞台美術家・演出家・司会者・コピーライター・作詞家・シナリオライターなど様々な活動を行っていた』。「アンパンマン」は、やなせたかしが描く一連の絵本シリーズであり、これを原作とする派生作品の総称です。また、それらの作品における主人公「アンパンマン」の名前です。

 

パンの製造過程で餡パンに「生命の星」が入ることで誕生した正義のヒーローで、困っている人を助けるために自らの顔(あんパン)を差し出します。あんパン(餡パン)だけにその頭の中には餡(つぶあん)が詰まっているといいます。「アンパンマン」は子ども向けの人気漫画やアニメであり、客観的にも子どもを集めるためのツールの役目となっていると感じます。現在、高知県の香美市立のなせたかし記念館や全国5ヶ所にある「アンパンマンこどもミュージアム」などの関連施設があり、多くの子どもを集める拠点になっています。

 

やなせたかしは、軍人経験があり、子ども向けの漫画作家であることから、支配層の松利権の闇が絡む松工作員の役割を担っていたと見ています。やなせたかしの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。これまでの経験から、海外の戦地に出兵して日本に帰還した軍人は、支配層の八咫烏工作員の役割を担っていたと捉えています。wikiに記されていますが、軍人に成る前のやなせたかしは、東京高等工芸学校を1940(昭和15)に卒業後、田辺元三郎商店(後に東京田辺製薬を経て現・田辺三菱製薬)宣伝部に就職しています。

 

1941(昭和16)に徴兵のため大日本帝国陸軍の野戦重砲兵第6連隊補充隊(通称号は西部軍管区の隷下部隊である西部第73部隊)へ入営します。学歴を生かし幹部候補生を志願し、その内の乙幹に合格し暗号を担当する下士官となります。補充隊での教育後は支那事変に出征。従軍中は福州に駐屯して米軍の上陸に備えていましたが、米軍が上陸することはなかったために、結果として戦闘のない地域に居ることとなり、職種も戦闘を担当するものではなかったため、一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったといいます。部隊では主に暗号の作成・解読を担当するとともに、宣撫工作にも携わり、紙芝居を作って地元民向けに演じたこともあったされます。

 

終戦後しばらくは、戦友らとクズ拾いの会社で働いていましたが、絵への興味が再発して1946(昭和21)に高知新聞社に入社しました。《ファイザー日本進出の原点となるファイザー田辺を設立した八咫烏・日本DSの三菱グループ・田辺三菱製薬》にありますが、やなせたかしが勤務していた田辺三菱製薬は三菱グループの製薬会社であり、支配層の松利権の闇の中核の役割でした。経歴からも、やなせたかしは、支配層の松工作員として重要な役目を果たして来たことが窺えます。個人的に、やなせたかし以上に重要人物だと感じたのは、やなせたかしの父親です。やなせたかしーwikiには、やなせたかしの父親の経歴についても言及されています。

 

『東京府北豊島郡滝野川町(現:東京都北区)生まれ。父方の実家は高知県香美郡在所村(現:高知県香美市香北町)にあり、伊勢平氏の末裔で300年続く旧家。父親・柳瀬清は上海の東亜同文書院を卒業後、上海の日本郵船に勤めた後、講談社に移り「雄辯」で編集者を務めた。父親はやなせの生まれた翌年に東京朝日新聞に引き抜かれ、1923(大正12)に特派員として単身で上海に渡る。その後、一家は後を追い上海に移住。この地で弟・千尋が生まれたが、程なくアモイに転勤となった父親は再び単身赴任を選び、やなせらは東京に戻る。1924(大正13)に父親がアモイで客死。

 

遺された家族は父親の縁故を頼りに高知県高知市に移住する』。やなせたかしの父親・柳瀬清は、大日本帝国軍の重要拠点である中国・上海に居住していたこと、三菱グループの海運会社である日本郵船に勤務していたことから、やなせたかしと同様に支配層・八咫烏の工作員の役割を担っていたと感じます。《人身売買の闇の歴史が潜む日本郵船と創価・DSが絡む海洋研究開発機構の掘削船》から日本郵船は、歴史的に天皇を頂点とする支配層の人身売買の闇が絡んでいることが分かっています。やなせたかしの父親・柳瀬清の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「殺されたかもしれない」と伝えられました。

 

八咫烏工作員で、口封じされた可能性があるようです。やなせたかしの父親・柳瀬清は、重要人物だと感じて、勤務や所属した団体や企業を追跡していくことにしました。父親・柳瀬清は、上海の「東亜同文書院(とうあどうぶんしょいん)」を卒業しています。「東亜同文書院」の情報はwikiに記されています。『東亜同文書院大学は、中華民国上海市に本部を置いていた日本の私立大学である。1939年に設置され、1945年に廃止された。大学の略称は東亜同文書院。[概観]〈大学全体〉1899(明治32)、日本の東亜同文会によって中国(清朝)南京に南京同文書院が設立されていた。

 

この南京同文書院の閉鎖に伴い上海へ移設されて、東亜同文書院大学の前身となる高等教育機関東亜同文書院が設置された。こうした設立経緯などの都合から、東亜同文書院を上海同文書院と通称することがある。東亜同文書院の中心は商務科であったが、その他に政治科、農工科、中国人を対象とした中華学生部も一時設置されていた。1921(大正10)に専門学校に昇格し、1939(昭和14)12月には大学に昇格した。1943(昭和18)には専門部が付設された。1945(昭和20)9月、日本の敗戦に伴い学校施設を中国に接収され、同年閉学した。

 

〈建学の精神(校訓・理念・学是)〉初代院長の根津一は東亜同文書院の創立にあたって「興学要旨」と「立教綱領」を定めた。興学要旨に「中外の實學を講じ、中日の英才を教え、一つは以って中国富強の本を立て、一つは以って中日揖協の根を固む。期するところは中国を保全し、東亜久安の策を定め、宇内永和の計をたつるにあり」とし、立教綱領に「徳教を経となし、聖賢経伝により之を施す。智育を緯とし、中国学生には日本の言語、文章と泰西百科実用の学を、日本学生には、中英の言語文章、及び中外の制度律令、商工務の要をさずく。

 

期するところは各自通達強立、国家有用の士、当世必需の才を為すに有り」としたことは、陽明学的な実用主義的立場が重視されていたことを示す。東亜同文書院では儒教の経学を道徳教育の基礎にすえるとともに、簿記などの実用的な学問を重視した』。東亜同文書院は、日本と中国を現場とする工作員養成所だと感じます。特に、中国人の工作員を育成するためのものだと見ています。この東亜同文書院と東亜同文書院を設立した日本の東亜同文会が、支配層八咫烏(鶴派)にとっての非常に重要なポイントであると分かってきたのです。(つづく)