
やなせたかしの父親・柳瀬清は、中華民国上海市に本部を置いていた日本の私立大学の東亜同文書院を卒業しました。東亜同文書院の関係者を追跡することにしました。wikiによれば、東亜同文書院の前身は、1890年(明治23年)に日本陸軍参謀本部将校の「荒尾精(あらおせい)」が上海に設立した、中国貿易実務者を養成するための「日清貿易研究所」です。日清貿易研究所の情報はwikiに記載されています。『日清貿易研究所は、1890年から1893年にかけて清国上海に存在した日本の教育機関である。
[概要]日本陸軍参謀本部将校荒尾精は、白人の侵略から国を守るには、日中が互いに貿易を盛んに行なうことによって経済大国となり(貿易富国)、日中が連携して白人に対抗すべきである(協同防禦)という考えを持っていた。この目的のために漢口楽善堂を拠点として大陸調査活動を行ったが(明治19~22年)、日中貿易振興のためには優秀な貿易実務担当者の育成が不可欠であることを痛感した。そこで日本政府に資金調達を働きかけ、全国を遊説して生徒を集め、上海に日清貿易研究所を設立した(明治23年)。
研究所の運営は困難を極め、日清戦争の勃発とともに閉鎖されてしまう(明治26年)。研究所の卒業生は日本軍の通訳、間諜として働き、清国軍に捕まって処刑された者も多い(九烈士)。しかし、荒尾の日中提携による貿易立国の精神は盟友根津一や卒業生らによって引き継がれ、後の東亜同文書院設立となって結実した(明治34年)』。やはり、東亜同文書院の前身の日清貿易研究所は、設立者の荒尾精が日本陸軍参謀本部将校だったことから、日本陸軍の工作員養成のための工作機関だったと感じます。日清貿易研究所の設立者・荒尾精の経歴はwikiに記されています。
『荒尾精(1859年-1896年)は、尾張国(現・愛知県)出身の陸軍軍人、日清貿易研究所の設立者。日清戦争の最中、「対清意見」「対清弁妄」を著し、清国に対する領土割譲要求に反対した。日中提携によるアジア保全を唱えた明治の先覚者である。[経歴]尾張藩士・荒尾義済の長男として尾張国琵琶島に生まれる。幼名は一太郎、本名は義行、後に東方斎と号した。1878年(明治11年)、陸軍教導団砲兵科に入学。さらに陸軍士官学校に入り、熊本歩兵連隊に赴任。1882年(明治15年)12月に同校(旧第5期)卒業後は、歩兵第13連隊付となる。
1885年(明治18年)、陸軍参謀本部支那部付けになった。1886年(明治19年)、参謀本部の命を受け、情報収集のために中国(清)に赴任。岸田吟香の援助を受けて漢口楽善堂を運営、大陸調査活動の拠点とした。1889年(明治22年)、漢口楽善堂の活動を終え、帰国。2万6千余字からなる「復命書(報告書)」を参謀本部に提出した 。1890年(明治23年)9月、上海に日清貿易研究所を設立し、日中貿易実務担当者の育成に着手。日清貿易研究所は彼の死後設立された東亜同文書院の前身となった。1893年(明治26年)7月、予備役に編入となる。
1896年(明治29年)9月、台湾でペストにかかり死去。1915年(大正4年)、従五位を追贈された』。東亜同文書院の前身の日清貿易研究所は、戦前・戦中に日本の支配層が構築しようとしたアジア圏での貿易網としての松利権網の「大東亜共栄圏構想」に繋がっていると見ています。日清貿易研究所の設立者・荒尾精が現在の愛知県出身であることが目に留まります。日清貿易研究所の設立者・荒尾精の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「八咫烏」と伝えられました。荒尾精は、八咫烏鶴派の工作員の役割を担っていたと感じます。
大東亜共栄圏の詳細については《大東亜共栄圏の標語に隠されたアジア植民地での松果体利権の構築と拡大》にあります。東亜同文書院の初代院長は、「根津一(ねづはじめ)」です。根津一は、盟友の荒尾精が設立した日清貿易研究所を引継いだ中心人物です。根津一の経歴はwikiに記されています。『根津 一(1860年-1927年)は、甲斐国(現・山梨県)出身の教育者・陸軍軍人。陸軍少佐。幼名は伝次郎、のちに一、山洲と号した。軍人として日清戦争に従軍する一方、荒尾精の盟友として上海の日清貿易研究所の運営にあたり、また上海の東亜同文書院の初代・第3代院長として日中間で活動する人材の育成につとめた。
[略歴]甲斐国山梨郡一町田中村(のち山梨県東山梨郡日川村一町田中、現:山梨県山梨市一町田中)の富家根津勝七の次男として生まれる。幼少より武術だけでなく学問を好み経書に親しんだという。西南戦争の際、下士官養成のための陸軍教導団に入る。従軍はしなかったものの、同団を首席で卒業する。次いで陸軍士官学校(陸士旧4期)砲兵科へ入学し、「谷中会」と称する私的な勉強会をひらいて時事について論議するなど勉学にいそしんだ。また、この時、盟友となる荒尾精と知り合い中国への志を強めている』。
東亜同文書院の初代・第3代院長の根津一の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。根津一は、日本陸軍を通じて、荒尾精と盟友であったことから八咫烏工作員の役割だったと見ています。東亜同文書院-wikiには、「愛知大学との関係」の項目があり、次のように記述されています。『東亜同文書院大学と愛知大学は別の組織だが、愛知大学は東亜同文書院を前身校と位置づけている。東亜同文書院大学学長であった本間喜一は、学校の再建を考えて学籍簿と成績簿を上海から持ち帰った。1946年(昭和21年)6月、本間による旧学生・教職員を収容する新大学設立計画が本格化する。
しかし、GHQが東亜同文書院大学の復活に難色を示したため、一部の旧教員の就任が見送られることになり、結局、1946年(昭和21年)11月に京城帝国大学や台北帝国大学など外地の学校から引き揚げて来た学生・教職員も含めて愛知大学(旧制大学)が設立された。しかし、愛知大学は東亜同文書院の学籍簿と成績簿を保管して東亜同文書院大学の卒業生の卒業証明書などの発行事務を行っており、実質的な後身校となった』。中国・上海にあった「東亜同文書院(大学)」の後身が、実質的に、愛知県に本部を置く私立大学の「愛知大学」だったのです。(つづく)