
東亜同文書院(とうあどうぶんしょいん)は、日本の東亜同文会(とうあどうぶんかい)によって中国(清朝)南京に設立された南京同文書院が源流となります。東亜同文書院-wikiには次のような記述があります。『1899年(明治32年)、日本の東亜同文会によって中国(清朝)南京に南京同文書院が設立されていた。この南京同文書院の閉鎖に伴い上海へ移設されて、東亜同文書院大学の前身となる高等教育機関東亜同文書院が設置された。こうした設立経緯などの都合から、東亜同文書院を上海同文書院と通称することがある。
東亜同文書院の中心は商務科であったが、その他に政治科、農工科、中国人を対象とした中華学生部も一時設置されていた。1921年(大正10年)に専門学校に昇格し、1939年(昭和14年)12月には大学に昇格した』。中国上海の東亜同文書院を設立した「東亜同文会」を追って行きました。東亜同文会の情報はwikiに記載されています。『東亜同文会(とうあどうぶんかい)とは、1898年(明治31年)から1946年(昭和21年)にかけて、日本に存在した民間外交団体及びアジア主義団体。上海に設立された東亜同文書院の経営母体であったことで知られる。現在の霞山会の前身である。
[設立の経緯・概要]東亜同文会は、日清戦争・日露戦争後に清国に対して優越的立場を取り、なおかつ「支那保全(支那保全論)」を掲げて発足した、中期アジア主義の代表的な機関である。1896年から1898年にかけて清朝が欧米により勢力分割(いわゆる「瓜分」)され、それに続く戊戌の変法・戊戌の政変の騒動は、日本においても朝野の大きな関心事となった。これによって改革派の康有為・梁啓超らが亡命することになり、更には清朝打倒の革命を唱える孫文らが既に日本を拠点に活動していたことは、日本政府にとって二つの問題を同時に抱えることとなった。
こうした問題を抱えながら、康・梁・孫らの改革や革命の支援を主目標に掲げた「東亜会」と、大陸での事業経営などの活動を目的として発足した「同文会」という異なる二つの団体と、アジア主義の先駆である団体「興亜会(亜細亜協会)」や「東邦協会」の他、「善隣協会」の一部を吸収合併し、「東亜同文会」が発足した。同年の第2次松方内閣は、重要輸出品同業組合法と生糸直輸出奨励法をともに成立させ、同業組合・同業組合連合会の活動によるカルテル・低賃金体制を構築して工業家を支援しようとした。
(ただし生糸直輸出奨励法については諸外国からの報復関税を受けそうになり内閣は失脚した)。東亜同文会は支那保全を掲げていたが、義和団の乱で井上雅二らによる連邦保全策が失敗してから新たに浮上した満州問題を廻って、対露強硬の姿勢を取る近衛篤麿と平和論を主張した陸羯南が対立する。東亜同文会の思想は近衛が康に述べたような「アジア・モンロー主義」に近い新秩序を志向するものとなった。会員の犬養毅が政府に活動資金を出すように働きかけ、外務省機密費で年に4万円が支給された。
これにより、外務省の意向が会の役員人事にも影を落としていた半官半民の国策団体であった。日本政府は最初、康有為・梁啓超一派の亡命に対して協力的だった。しかし、山縣内閣が清国の要求により康・梁追放を求めたのに対して近衛篤麿は、康の離日については受け入れたものの、梁の追放という清朝高官の要求を拒否するという対応を取った。しかし、この近衛の行為には陸を始めとして会の中からも大きな批判があり、陸のほか数名の脱会者が出た。このようであったから、東亜同文会は孫文の革命派に対する支援にも消極的になった。
(ただし、元々梁らの勢力は、立憲君主制などを求める改革派であって孫文らの革命派とは立場が異なり、対立することもあった。また犬養毅は革命派・改革派双方との関係を維持する動きをしている)。広東支部の廃止なども相次いだ。その後、1936年から篤麿の息子で日中戦争時の内閣総理大臣も務める近衛文麿が第5代会長となるも第二次世界大戦後の1945年12月に自殺し、これを受けて東亜同文会は自主解散した』。wikiには、設立時の東亜同文会の役員名簿が記されています。会長は、近衛篤麿(このえあつまろ)です。
会員には、元内閣総理大臣の犬養毅や京大出身の近代日本の東洋史学者である内藤湖南などがいます。内藤湖南については、中国朝鮮族の拠点の中国延辺朝鮮族自治州延吉市(満州)を訪れた重要人物です。《八咫烏の術師の役割を成した近代日本の東洋史学者・内藤湖南》の記事ではワークを含めて追跡しており、八咫烏の術師の役割を担っていたことが分かっています。犬養毅については、《創価教育学支援会の創設メンバーから垣間見える闇利権を引継ぐ大物政治家》にあるように、創価学会の間接的な前身である創価教育支援会の創設メンバーであり、当時の支配層・創価学会のキーパーソンだと理解しています。
東亜同文会の初代会長・近衛篤麿の経歴はwikiに記されています。『近衛篤麿(1863年- 1904年)は、明治時代の山城国京都(現・京都府京都市)出身の政治家。五摂家筆頭・近衛家第29代当主。位階・勲等・爵位は従一位勲二等公爵。第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長などを歴任した。号は霞山。[経歴]〈生い立ち〉文久3年(1863年)6月26日、左大臣・近衛忠房の長男として京都に生まれた。母は島津斉彬養女(島津久長の娘)光子とされているが、島津家の資料では「光蘭夫人(光子)篤麿養母」と記載されている。
明治6年(1873年)父が家督を継いだ翌月に35歳で病没したため、祖父近衛忠煕の養子となり家督を相続した(文献によっては忠煕九男と記載)。明治12年(1879年)に大学予備門に入学したが、病を得て退学を余儀なくされ、京都へ戻った。以後、和漢に加え英語を独学。明治17年(1884年)、華族令制定に伴い公爵に叙せられる。翌明治18年(1885年)に伊藤博文の勧めでドイツ・オーストリアの両国に留学し、ボン大学及びライプツィヒ大学に学んだ。ヨーロッパへの船旅の途上、清仏戦争の講和会議が始まろうとしている時期であったため、台湾海峡を通過した際に澎湖島の所々に立てられたフランス国旗を目撃した。
篤麿はそれについて日記に「我が国何ぞこれを対岸の火災視して可ならんや。唇亡歯寒の喩、みるべきなり。」と記し、次は日本の番だと白人帝国主義への恐怖の念を露わにしている。当時海外留学した者は西洋心酔主義者になるか逆に恐怖心から国粋主義者になる傾向があったが、篤麿は後者だった』。東亜同文会の初代会長・近衛篤麿の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「創価」と伝えられました。東亜同文会の初代会長・近衛篤麿は、支配層・八咫烏鶴派の胴元工作組織・創価学会の工作員の役割であり、東亜同文会も創価の工作組織だったと捉えています。(つづく)