
今回の一連記事のきっかけになった陸自2隊員が落雷で感電死した「大分県・日出生台演習場事故」です。現場である日出生台演習場-wikiに画像が掲載された白馬に乗馬したやなせたかし(本名・柳瀬嵩)と父親の柳瀬清の勤務先について追跡していきました。父親の柳瀬清は、日本郵船、講談社、朝日新聞社に勤務していました。wikiには、『父親・柳瀬清は上海の東亜同文書院を卒業後、上海の日本郵船に勤めた後、講談社に移り「雄辯」で編集者を務めた。父親はやなせの生まれた翌年に東京朝日新聞に引き抜かれ、1923年(大正12年)に特派員として単身で上海に渡る。
その後、一家は後を追い上海に移住。この地で弟・千尋が生まれたが、程なくアモイに転勤となった父親は再び単身赴任を選び、やなせらは東京に戻る。1924年(大正13年)に父親がアモイで客死』と記されています。日本郵船の情報はwikiに記載されています。『日本郵船株式会社は、東京都千代田区丸の内に本社を置く、三菱グループの大手海運会社。英称の「NIPPON YUSEN KAISHA」から「NYK LINE」という通称があり、国際的にはNYK LINEのブランド名で知られている。三菱グループ(旧三菱財閥)の中核企業で、三菱グループの祖業・源流企業にあたる。
1885年9月29日に、三菱の創始者(初代総帥)である岩崎弥太郎によって大阪府大阪市で設立された「九十九商会(つくもしょうかい)」に由来し、1893年12月15日に株式会社へと改組した。三菱金曜会及び三菱広報委員会の会員企業。商船三井(MOL)・川崎汽船(“K”Line)とともに日本の三大海運会社の一つであり、日経平均株価および読売株価指数、TOPIX
Large70、JPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ。社名に「郵船」が含まれるが、現在は郵便船を保有しておらず、船舶による郵便物の運搬も取り扱っていない。また、旧郵政公社から民営化した日本郵政や、その子会社の日本郵便とは資本関係などの関連性はない。
[会社概要]国内・海外を合わせて350以上の都市の港へ684隻の運航船舶が乗り入れており、連結売上高で日本1位、世界でも有数の海運会社の一つである。2006年2月、マースクライン社(デンマーク)が、世界第3位の業界シェアを占めるP&ONedlloyd社(オランダ)と合併し世界最大手になったため、NYKは連結売上高で世界2位になった。「NYK
LINE」の名称で国内以上に海外での知名度が高く、日本海運のフラッグ・キャリアと呼ばれる所以である。台湾出兵を機に国有会社の日本国郵便蒸気船会社とのシェア争いで勝利した三菱商会系の「郵便汽船三菱会社」は、三井系国策会社の共同運輸会社と度重なる値下げ競争を行った。
日本の海運業の衰退を危惧した政府の仲介により両社は合併し、日本郵船会社が設立された。ファンネルマーク(船の煙突部分につける会社のマーク)は、白地に2本の赤の線で「二引」と呼ばれ、二社の対等合併を表す(三菱商会の淵源にあたる坂本龍馬が設立した海援隊の隊旗に倣ったものであり、創始者の岩崎弥太郎は坂本龍馬と同じ土佐藩出身である)。2002年10月からイメージキャラクターにアニメ「サザエさん」のフネを起用し、その広告が第46回日本雑誌広告賞金賞と、JR東日本ポスターグランプリ2003銅賞を受賞した。
フネ起用の契約は2006年3月31日をもって終了し、同年4月17日から数年間琴欧洲を起用していたこともあった。欧米と協調して航路を拓いてきた歴史をもつ一方、石原産業海運の盟外配船がもとで、最盛期の1935年にオランダと貿易摩擦を経験している』。2022年2月の記事《人身売買の闇の歴史が潜む日本郵船と創価・DSが絡む海洋研究開発機構の掘削船》で言及していますが、三菱グループの日本郵船には支配層による人身売買の闇が潜む歴史を有しています。幕末維新の時代、日本の支配層が裏の金儲けのために成して来た暗黒の歴史が隠蔽されてきたのです。
日本郵船の設立者は、三菱グループ(旧・三菱財閥)の創業者(初代総帥)の岩崎弥太郎です。岩崎弥太郎については、《日本DSに直結する安倍一族と三菱財閥の流れを汲む三菱グループ》でワークを行っており、「ワニ」と伝えられました。支配層の松工作に関わるワニの宇宙人が憑いた工作員の役割を担っていたようです。また、《総務省、日本郵政、NTTが引継ぐ逓信省の隠された利権の闇》では、日本郵船の初代総支配人のアルバート・リチャード・ブラウン(英国)、当時の社長・長澤仁志、東京丸の内の本社に光を降ろしています。当時の社長・長澤仁志については「反社。松」と伝えられました。
今回、再度、日本郵船の初代総支配人のアルバート・リチャード・ブラウン、初代社長・森岡昌純と現経営幹部から取締役会長の長澤仁志、代表取締役社長・社長執行役員の曽我貴也、代表取締役・副社長執行役員の河野晃の5人をワーク対象にピックアップしました。日本郵船の初代総支配人のアルバート・リチャード・ブラウンの経歴はwikiに記されています。『アルバート・リチャード・ブラウン(Albert
Richard Brown・1839年-1913年)は、イギリスの航海士、技術者である。お雇い外国人の一人として明治政府に請われて、明治丸の日本回航に携わった。
その他、郵便汽船三菱会社(現・日本郵船)の汽船購入の周旋、三菱商船学校(現・東京海洋大学海洋工学部)で船員教育に携わった。[経歴・人物]1839年、イングランドのハンプシャーリングウッドに生まれる。1867年(慶応3年)イギリス船マラッカ号の主席一等航海士(Chief Officer)として日本を訪れる。1868年(明治元年)には明治政府の依頼で、灯台補給船富王丸の船長となった。1874年(明治7年)の台湾出兵の時には「明治丸」の兵員輸送、日本回航に携わった。また、同時期に郵便汽船三菱会社への汽船の購入を斡旋している。その後、三菱商船学校の創立に携わる。1885年(明治18年)に日本郵船会社(現・日本郵船)が設立された際には初代総支配人に就任した。
1889年 イギリスに戻り、グラスゴーで貿易会社エ・ア・ブラウン・マクファレン(A.R BROW McFARLANE& CO.,LTD)を設立する。1901年
明治天皇より日本人以外としては初めてとなる勲二等瑞宝章を授っている』。初代総支配人のアルバート・リチャード・ブラウンは、明治天皇より日本人以外で初めて勲二等瑞宝章を授ったことから支配層の松利権に多大な貢献を成したことが分かります。日本郵船の初代総支配人のアルバート・リチャード・ブラウンの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「アーク」と伝えられました。DSという支配層の松利権網を構築したアークの宇宙人が憑いた工作員の役割だったようです。(つづく)