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「講談社」の次は「東京朝日新聞社(現・朝日新聞社)」を追跡しました。やなせたかしの父親・柳瀬清は、東京朝日新聞に引き抜かれ、1923(大正12)に特派員として単身で上海に渡り、その後、一家は後を追い上海に移住しました。東京朝日新聞の情報はwikiに記されています。『東京朝日新聞は日本の日刊新聞である「朝日新聞」の東日本地区での旧題。現在の朝日新聞東京本社版の前身にあたる。略称は東朝(とうちょう)。大正期には東京五大新聞(東京日日、報知、時事、國民、東京朝日)の一角として数えられた。

 

関東大震災では大打撃を受けたが、大阪本拠の利点を生かして立ち直り、逆に在京既存紙を揺るがす形で伸張した』。現在の朝日新聞社の情報はwikiに記載されています。『株式会社朝日新聞社は、全国紙「朝日新聞」を発行する日本の新聞社である。また、同名のニュースサイトの運営も行う。産業経済新聞社(産経新聞社)、大阪毎日新聞社(毎日新聞大阪本社の前身)などとともに大阪府大阪市を発祥とする新聞社であり、現在でも登記上の本店を大阪に置いている。 新聞以外に雑誌・書籍の出版や芸術作品の展示・公演などの文化事業を行う。

 

また、全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園大会)といったスポーツ大会の開催などの幅広い事業活動も行う。[組織体制]1879(明治12)18日に大阪府で創立。日本国内の4本社1支社、取材拠点は総局42・支局61・地区担当43、印刷拠点は20か所であり、日本国外機関は5総局・21支局の26拠点。新聞販売店の名称は「ASA(朝日新聞サービスアンカー、Asahi Shimbun Service Anchor)であり、日本全国で約3000か所、従業員数約78,000人を擁する。日本ABC協会の調査によると海外を含む 。朝日新聞の20242月における発行部数は346万部との読売新聞に次ぐ国内第2位』。

 

【2025年】新聞発行部数・実売部数・公称部数の現状と未来展望》には、日本の五大新聞の発行部数データがあります。日本の五大新聞は、読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・日本経済新聞・産経新聞です。20258月の発行部数が掲載されています。『1位 読売新聞(5,367,089) 2位 朝日新聞(3,212,827) 3位 毎日新聞(1,176,751) 4位 日本経済新聞(1,277,296) 5位 産経新聞(796,577)』。五大新聞を支配層・八咫烏の勢力関係で分けると、八咫烏鶴派(欧州・中国・ロスチャイルド・創価学会)が朝日新聞・毎日新聞です。

 

また、八咫烏亀派(米国・朝鮮・ロックフェラー・統一教会)が読売新聞・産経新聞、鶴亀を操る八咫烏同和派が日本経済新聞と捉えています。八咫烏鶴派は、支配層の闇の土台の純粋な闇の役割であり、五芒星の強い支配の力を有しています。八咫烏亀派は、支配層の闇の建屋のエゴの闇の役割であり、六芒星の隠す闇となる工作の力を有しています。八咫烏同和派は、鶴派と亀派を戦わせてコントロールし、利益を得る八咫烏の本質を持っています。五芒星と六芒星を組合せることで、支配層の裏の金儲けに絡む松利権の闇に繋がります。

 

wikiには朝日新聞社の創業者の1人として、村山龍平(むらやまりょうへい)と上野理一(うえのりいち)の名前が記されています。村山龍平の経歴はwikiにあります。『村山龍平(1850-1933)は、現・三重県度会郡玉城町出身の新聞経営者。朝日新聞社社主・社長、政治家。衆議院議員、貴族院議員。玉城町名誉町民第1号。[来歴・人物]嘉永3(1850)、伊勢国田丸(現・三重県度会郡玉城町)に生まれる。幼名は直輔。 実家は紀州藩旧田丸領に仕えた旧士族。幼少時代は腕白なガキ大将で、喧嘩に負けそうになると小刀を振り回し、両親や近所の人を困らせていた。

 

しかし文久3(1863)冬に、母が重病になってからは改心し、母の平癒を祈り、冷静沈着な少年に変わった。慶応3(1867)からは田丸城に勤番した。明治4(1871)に一家を挙げて大阪に移住し、父とともに西洋雑貨商「村山屋」を営む。明治11(1878)7月に大阪商法会議所(大阪商工会議所の前身)の最初の議員に選ばれる。明治12(1879)に朝日新聞の創刊に参加。明治14(1881)、木村平八・騰父子から同紙の所有権を獲得、上野理一と共同経営にあたる(明治41(1908)以後は1年おきに社長)。明治24(1891)に第1回衆議院議員総選挙補欠選挙で衆議院議員に当選。

 

以後、第2回、第3回総選挙で当選し、衆議院議員を通算三期務めた。その他、大阪府会議員、大阪市会議員などを歴任。大正7(1918)に白虹事件で暴行を受ける。昭和5(1930)1223日に貴族院勅選議員となり、死去するまで在任。昭和8(1933)84歳で死去。勲一等瑞宝章、従四位を追贈された。娘婿は村山長挙(後の朝日新聞社長)』。朝日新聞社の創業者・村山龍平の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「創価」と伝えられました。支配層・八咫烏の鶴派の胴元工作組織・創価学会の工作員の役割を担っていたようです。

 

もう1人の朝日新聞社の創業者・上野理一の経歴はwikiに記されています。『上野理一(1848-1919)は、朝日新聞の社主・社長。数寄者としても有名で号を有竹と称す。[来歴・人物]1848(嘉永元年)10月、父・保兵衛(やすべえ、戒名は觀孝院念空仁譽統居士)、母・かね(旧姓木村氏、戒名は仙柔院心譽温室妙良大姉)の長男として丹波国篠山町西町(現・兵庫県丹波篠山市)の生糸商西垣屋の家に生まれる。明治維新後に単身大阪に出ると、大賀大眉、細見真らの周旋で三好重臣の書生となり、13歳の春から藩校振徳堂教授渡辺弗措の門下で学ぶ。1870(明治3)、久美浜県(現・京都府)の産物系吏生に就任。

 

地方の官吏を経て1880(明治13)10月、当時まだ大阪の小新聞でしかなかった朝日新聞社へ入社する。翌年社主から一切の経営を任され、出資金総額三分の二を村山龍平が、三分の一を上野理一が分担する事となる。この上野の朝日に対する出資は当初極秘にされ、しかも三井糸店(越後屋呉服店の分店)当主である豊田善右衛門が保証人となって資金を調達したといわれており、朝日新聞社が社史で認めている政府・三井銀行からの極秘の経営資金援助と関係があるのではないかとする見方もある。その後、村山と二人で朝日の経営を行った。1919(大正8)、満71歳で死去。

 

墓所は元は阿倍野墓地にあったが法然院に改葬された。戒名は純正院殿顯譽理觀統長大居士。贈正六位。妻のきぬは兵庫県御影の酒造家十三代嘉納治郎太夫の六女(192043日没) 。息子は第2代社主の上野精一。今なお上野、村山両家だけで株式総数の約4割を保有している』。上野理一は、生糸商西垣屋の家に生まれており、繊維業の裏の松利権を有していたと感じます。朝日新聞社の創業者・上野理一の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松集め。松喰い」と伝えられました。やはり自ら松を食しながら松利権の裏の金儲けを成していた工作員の役割を担っていたようです。(つづく)