
「NTT東日本関東病院」のワークを終えて、次に「創価教育学会」発祥の地(創価学会の発祥地)の周辺にある神社・寺院・有名人の墓所に移りました。グーグルマップでの目視とネット検索を通じて、神社・寺院・有名人の墓所のワーク対象として選んだのが、「蛇窪(へびくぼ)神社」「品川神社」「板垣退助の墓(品川神社内)」「伊藤博文の墓」「山内豊信(山内容堂)の墓」「岩倉具視の墓(海晏寺内)」「沢庵宗彭の墓(東海寺内)」「賀茂真淵の墓(東海寺内)」の8箇所です。蛇窪神社の情報はwikiに記されています。『蛇窪神社は、東京都品川区二葉にある神社。
登記上の宗教法人名称は天祖神社(てんそじんじゃ)。2019年(令和元年)5月1日より別称の蛇窪神社を通称表記へ格上げしている。[由緒]創建は鎌倉時代の文永8年(1271年)に北条重時の五男・時千代が、仏門に入り法圓上人となり、大森(現在の大田区)に厳正寺を開き、その家臣が蛇窪(現在の当地付近)に住み着いた。後の元亨2年(1322年)に厳正寺の僧侶が池の竜神へ雨乞いの祈願したところ、慈雨が降ってきたのでそれに感激した時千代の旧臣らが当地にも神社を勧進し祀ったというのが始まりであるという。当時は神明社と称していたが、村社に昇格した際に「天祖神社」に改名した。
2019年(令和元年)5月1日、御大典にあわせて近年から別称として使用していた「蛇窪神社」を通称表記に格上げした。社殿等は第二次世界大戦による戦災で焼失し現在のものは1961年(昭和36年)に再建されたもの。また荏原七福神のひとつとして弁財天を祀っている。[祭神]〈主神〉・天照大御神 〈配祀〉・天児屋根命 ・応神天皇』。「蛇窪」の地名の由来についてネットで調べると《AIアシスタント》には『「蛇窪」という地名の由来には複数の説があります。最も有力なのは、かつてこの地域が湿地で蛇が多く生息していたためという説です』とありました。蛇のエネルギー体は、闇の役割であり、光の場所を固める・縛る・封じる働きをします。
蛇窪神社の地は、本来は光の地ですが闇に変えられていると感じています。蛇窪神社のグーグルマップの画像を観ると、境内社の白蛇弁財天に清水が湧く場所に白蛇の形の石が置かれていました。蛇窪神社の所在地(東京都品川区二葉4丁目4-12)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「水が封じられている」と伝えられました。品川区は、本来、字のごとく川がある水の場所ですが光が出るために闇で封じられてきたようです。水が自由になるよう意図して再度、蛇窪神社に光を降ろすと「いいです」と伝えられました。神社の注連縄(しめなわ)は2匹の蛇が絡んだ封印のヒントになります。
神社は、神道の宗教施設であり、信者など多くの人々を集める、支配層の隠された松利権工作の拠点に利用されてきました。子どもが突然いなくなるという「神隠し」という言葉があるのは、そのためです。密かに生贄や松取りが成された場所の精霊が闇に変えられて闇のエネルギー体として闇の仕事をしてきました。こうした神社仏閣の地に祈りを通じて光を降ろすことで、その地を本来の姿にすることが重要になります。トカゲ・レプタリアンなどの爬虫類型宇宙人のように、闇のエネルギー体は、地上よりも地下に存在することが多いので、地下を意図して光を降ろすことを心掛けています。
品川神社の情報はwikiにあります。『品川神社は、東京都品川区北品川三丁目にある神社。元准勅祭社として東京十社のひとつでもある。
また東海七福神の一社として、大黒天を祀る。[祭神]・天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと) ・素盞嗚尊 ・宇賀之売命[歴史]文治3年(1187年)、源頼朝が安房国の洲崎神社から、海上交通安全と祈願成就の守護神として、天比理乃咩命を勧請して祀り、品川大明神と称したのに始まる。鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に北条高時の臣、二階堂道蘊が「宇賀之売命(稲荷神)」を、さらに室町時代中期の文明十年(1478年)に太田道灌が「素戔嗚尊(天王神)」をそれぞれ祀った。
慶長五年(1600年)、徳川家康が関ヶ原の戦いへ出陣の際に品川神社を参拝して戦勝祈願し、その後、祈願成就の御礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納し、天正19年(1591年)には徳川家康から5石の社領の朱印を受け、徳川家の尊崇する特別な神社として社紋も徳川家の家紋の「丸に三つ葉葵」と定め、「御修復所(神社の建物の再建・修復などは全て江戸幕府が賄う)」として徳川家の厚い庇護を受けた。
寛永14年(1637年)に三代将軍徳川家光が東海寺を建立した際には、境内の一部がその敷地となったため代替地を賜わり、神社の位置が東海寺の鬼門に当たることから、同社の鎮守とした。
1868年(明治元年)11月8日、明治天皇が品川神社を准勅祭社と定め、東京の鎮護と万民の安泰を祈る神社の一つとした。明治5年(1872年)、郷社に列した。また昭和50年(1975年)には、東京十社に列している』。松利権に関わる品川神社は、古くから源頼朝、太田道灌、徳川家康などの支配層の有名人の庇護を受けて大切にされてきました。品川神社内には「板垣退助の墓所」があります。wikiには『社殿の裏に所在するが、品川東海寺大山墓地の塔頭・高源院の旧地で、関東大震災後に同寺が世田谷区烏山に移転し墓だけが残されたものである』と記されています。
板垣退助の墓所は、正確には、品川神社の境内でなく社殿の裏に所在するということです。板垣退助の経歴はwikiにあります。『板垣退助(1837年-1919年)は、現・高知県高知市出身の政治家、軍人、武士(土佐藩士)、東征大総督東山道参謀。従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲として参与、参議、内務大臣(第10代・第13代)を歴任。自民党の先祖と言われる。幕末に薩摩藩士・西郷隆盛と共に「薩土密約」締結を主導。戊辰戦争では東征大総督東山道参謀として指揮を執り、明治維新後に参与となる。征韓論政変で下野後、自由民権運動の指導者として東アジアで初となる帝国議会の樹立に向けて活動し、「国会を創った男」として知られる。
また、常に国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。1898年(明治31年)には大隈重信とともに組閣の大命を受け、日本初の政党内閣となる隈板内閣を組織した』。《土佐の高知で繋がる岩崎弥太郎が始祖となる三菱Gの田辺三菱製薬と板垣退助が源流の高知新聞社》のワークの際に、板垣退助の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「半島工作員」と伝えられました。板垣退助の墓所と品川神社の境内(所在地・東京都品川区北品川3丁目7-15)の地下に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「半島。いいです」と伝えられました。板垣退助は、支配層・八咫烏亀派の工作員の役割を担っていたと感じます。(つづく)