
「品川神社」と品川神社内の「板垣退助の墓」のワークを終えて、「伊藤博文の墓」に移りました。「伊藤博文の墓」の情報は《品川区公式サイト》に記載されています。『石だたみに囲まれた円墳。高さ一九五・〇、円直径ニー〇・〇センチメートル。正面に、「従一位大勲位公爵伊藤博文墓」、背面に、「明治四十二年十月二十六日薨」と刻まれている。墓所は、伊藤家が管理していたが、戦後は防長倶楽部の所有となり管理するようになった。右隣りに、やや小型の梅子夫人の円墓がある。伊藤博文は、天保十二年(一八四一)萩藩(現山口県)の下級武士の子として生まれ、幼名は俊輔。
吉田松陰に師事して松下村塾に学び、初めは攘夷を唱えたが、若くして木戸孝允(桂小五郎)に随って英国に留学し、帰国後、開国・富国強兵論に転じた。萩藩主毛利敬親に海外の形勢を知らせ、攘夷の非を説いて忌避されたが、幕府が長州征討の軍を進めると、藩と幕府との間の斡旋に奔走した。明治維新後は、明治元年(一八六八)に参与となり、その後、工部大輔、参議、工部卿等、新政府の要職を歴任し、その間に再度、岩倉具視らと欧米諸国を巡って各国の制度を視察した。明治十五年(一八八二)、三たび欧州に赴き、二年余にわたって憲法制度や行政組織などについて視察した。
内閣制度の基礎を築き、同十八年には、初代内閣総理大臣となった。その後三回、通算四回首相の座について国政を指導した。明治四十二年(一九〇九)八月、ロシヤのココウゾフ蔵相と会見するため、旧満州(現中国東北部)のハルビンを訪れた時、駅頭で朝鮮の独立運動家に狙撃され死亡した。享年六十九歳であった。同年十一月国葬が行われ、近くに自宅(大井三-ー八九旧(株)ニコン光友倶楽部)があったことから、この地(当時の大井村谷垂)に葬られた』。伊藤博文は、吉田松陰の松下村塾の塾生であり、初代内閣総理大臣に就いた明治維新の象徴的な人物です。旧千円札の肖像画にもなりました。
基本的に、長州藩は、支配層・八咫烏鶴派に重きを置く工作員集団です。長州藩と対峙するのが薩摩藩であり、薩摩藩は支配層・八咫烏鶴派に重きを置く工作集団です。戦後は、八咫烏鶴派の胴元工作組織は創価学会であり、八咫烏亀派の胴元工作組織は統一教会だと捉えています。支配層の闇の構図は、八咫烏鶴派・創価学会の闇の土台の上に、八咫烏亀派・統一教会の建屋が乗っている形になります。いずれも、上層部は裏で手を組んでおり、八咫烏同和派としての工作集団になります。幕末維新に、内乱や戦が多発したのは、八咫烏・同和派の戦わせて利益を得る松利権工作を成して来たからです。
それが日本をより深い暗闇にしてきました。当然のことながら伊藤博文は、八咫烏亀派に軸足を置いた同和派の工作員だと捉えています。伊藤博文の墓所が東京都品川区西大井の地に置かれたのは、自宅があったからということです。しかし、品川の地に自宅を置いたのは、支配層の創価学会とも繋がっていたからだと感じます。2024年3月のヒプノセラピー《伊藤博文を疎ましく思っていた過去世の東条英機》では、東条英機の分け御魂(過去世)を持つクライアントの方を通じて、東条英機の伊藤博文に対する心情を伝えてきました。
クライアントの方は、伊藤博文の墓所の近くに自宅がありました。東条英機は、支配層・八咫烏鶴派に重きを置く人物でした。『居住地の東京都品川区西大井に伊藤博文墓所がある。過去世で伊藤博文と間接的に関係した。疎ましく思った。軍の仕事。丸眼鏡で短剣をぶら下げている。東条英機。今の気持ちは複雑。知っている人は知り出している。池袋に行くと嬉しくない。サンシャインシティの所に暗さを感じる。正しい行いをしていた。探求する人が増えた。もう少しだ』。暗に、表では対立して裏で手を組んでいることを示唆しています。
伊藤博文の墓の所在地(東京都品川区西大井6丁目10-18)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「工作員。いいです」と伝えられました。「山内豊信(山内容堂)の墓」は、品川区東大井四丁目大井公園内に所在します。「山内豊信(山内容堂)の墓」の情報は《品川区公式サイト》に掲載されています。『山内豊信は、十五代土佐(現高知県)高知藩主で容堂と号した。文政十年(一八二七)、分家南屋敷の山内豊著の長子として生まれたが、嘉永元年(一八四八)、宗家を継いで藩主となり、人材を登用し藩政の刷新を行った。
松平慶永、島津斉彬、
伊達宗城ら当時の有力大名と交わり、四人で国政の方向について論議建策したので、「幕末の四賢侯」として並び称されている。公武合体を理念とした豊信の強力な行動は、幕閣に忌避され、安政の大獄に関連して隠居し、豊信は封を子豊範に譲り藩邸から品川鮫洲の別邸に移り住んだ。その後、幕府から謹慎を命じられ、大井村の下屋敷に蟄居し、詩酒文墨を友として過していたが、文久二年(一八六二)再び政治の場に復帰し、十四代将軍家茂に上洛を勧め、十五代将軍慶喜には大政奉還を建議するなど、終始朝廷と幕府との間の斡旋に努めた。
明治五年(一八七二)六月二十一日に没した。遺言により、大井村下総山(現立会小学校校庭のほぼ中央付近)に葬られたが、昭和二十九年小学校用地買収のため、立会小学校脇の現地に移転した。墳墓は円型土盛り、前左側に自然石の墓碑に銘文等を刻んでいる』。《重要な光の地底の四国カルストを擁する高知県梼原町と重たい八咫烏の同和の闇に覆われた土佐の高知》にありますが、土佐藩(現・高知県)は、支配層・八咫烏の同和派の拠点と捉えています。八咫烏同和派は、八咫烏鶴派と八咫烏亀派を戦わせて利益を得る工作を成してきた勢力です。八咫烏の鶴亀の対立構図の代表が薩摩藩と長州藩の薩長です。
鶴亀の薩長の仲を取り持つ形だったのが土佐藩であり、土佐藩は、一番重たい支配層の闇の役割となっています。その真実を隠すために、坂本龍馬という超有名人のヒーローがつくられたと見ています。また、現代に繋がる三菱財閥(現・三菱G)の創始者・岩崎弥太郎も土佐藩の出身であり客観的な証になると感じます。山内豊信(山内容堂)の墓の所在地(品川区東大井四丁目大井公園内)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「亀。いいです」と伝えられました。土佐藩主だった山内豊信(山内容堂)自身は支配層・八咫烏亀派に重きを置く工作員の役割だったようです。(つづく)