
新潟大学医学部の歴史をネットで調べていくと《新潟大学医学部100周年記念アルバム》に行き着きました。『この100年間のうち、新潟医学専門学校 964名、新潟医科大学 1,974名、新潟医科大学附属医学専門部 658名、新潟大学医学部 5,637名の卒業生を世に輩出してきた。そして他大学出身者 1,406名を加え、10,639名の方が学士会会員として登録されてきた』と記されていました。現在の新潟大学医学部は、新潟医学専門学校、新潟医科大学、新潟医科大学附属医学専門部
を経て、新潟大学医学部まで変遷しています。アルバムの内容は、「序章 赤門と松」「第1章 大正期 新潟医学専門学校時代」
「第2章 昭和期 新潟医科大学時代」「第3章 昭和期 新潟医科大学附属医学専門部時代」「第4章 昭和期 新潟大学医学部医学科時代」「第5章 平成期 新潟大学医学部医学科・大学院医歯学総合研究科時代」に分けられています。「序章
赤門と松」に目が留まりました。新潟大学医学部には具体的に赤門と松が置かれており、エゴと松果体利権の闇のヒントとして示唆されていると感じます。『医学部表門と赤煉瓦塀は平成17(2005)年11月10日に国の有形文化財に登録されました。煉瓦塀は明治44年に、表門は大正3年に新潟医学専門学校講堂の主門として造られ、「赤門」の愛称で、その周辺の松とともにこの100年の歴史を刻んできました』。
《新潟大学医学部100周年記念アルバム》には、新潟大学医学部の源流についての記述があります。『1869(明治2)年新潟市寺町五ノ丁(現・西堀通7番町)の正福寺内に施薬院と種痘所(施蘭薬院、新潟県施薬院)を設ける(5月12日)』。また、新潟医科大学(旧制)-Wikipediaの沿革には、『前史・1869年5月: 新潟町検断 鈴木長蔵、新潟寺町 正福院内に施蘭薬院を開設』と記されています。新潟町検断の鈴木長蔵を、実質的な新潟大学医学部の源流の施蘭薬院の開設者として捉えました。「検断」とは、警察・治安維持・刑事裁判に関わる行為・権限・職務を総称した用語です。
鈴木長蔵の経歴はwikiに記載されています。『鈴木長蔵(すずきちょうぞう・1846年-1909年)は、現・新潟県新潟市出身の実業家、政治家。衆議院議員、新潟市長。幼名・周蔵。[経歴]越後国蒲原郡新潟町上大川前通九番町(現新潟県新潟市中央区上大川前通)で、廻船問屋「小川屋」・鈴木周平の息子として生まれる。私塾で学ぶ。明治2年3月(1869年)開港用掛になり開港業務に携わり、さらに年寄格・検断を務める。1872年、新潟町の第三、第四小区の戸長に就任。1875年、活版印刷業・隆文社を設立し、それを発行元に1877年「新潟新聞」を創刊した。
1879年、新潟県会が開設され、県会議員に選出され副議長を務め、新潟市会議員、同議長も務めた。1891年6月30日、新潟市長に就任し、二期市長を務めて1899年5月30日に退任した。1902年8月、第7回衆議院議員総選挙に新潟市から出馬して当選。第8回総選挙でも当選し、衆議院議員を二期務めた。実業界では、新潟川汽船会社の設立、北越興商会の結成、北越鉄道の設立などを行い、新潟県農工銀行頭取、初代新潟商業会議所会頭などを務めた。また、1873年、私立新潟病院を設立して取締役となり、西洋医学の導入、普及に努めるなど、多方面にわたり新潟市の発展に尽力した』。
新潟大学医学部の源流となる施蘭薬院の開設者・鈴木長蔵(新潟町検断)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS」と伝えられました。実質的に医療の闇を広げる支配層の工作員の役割を担っていたようです。新潟大学医学部の歴史で着目した人物がもう1人います。「石黒忠悳(いしぐろただのり)」です。wikiには下記の記述があります。『〈新潟医学専門学校時代〉1901年、旧制高等学校医学部 5校が独立し、医学専門学校 (医専)となった (千葉・仙台・岡山・金沢・長崎)。新潟県内でも官立医専設置の要望が高まり、1904年には北越医学会・県教育会が官立医専設置運動を展開した。
日露戦争勃発で運動は一時挫折するが、終戦後に本格化した。1905年、県知事が上京して石黒忠悳らに官立医専設置を諮り、敷地・附属病院・創設費30万円の寄附を申し出たのを始め、翌1906年には新潟県会が病院・創設費寄附予算を可決している』。石黒忠悳の経歴はwikiに記されています。『石黒忠悳(1845年-1941年)は、明治時代の日本陸軍軍医、日本赤十字社社長。茶人。草創期の軍医制度を確立した。爵位は子爵』。セッションのクライアントの方は、石黒忠悳の分け御魂(過去世)を有している可能性があると直感しました。石黒忠悳は、私が分け御魂(過去世)を有している後藤新平の恩人でした。
wikiには、石黒忠悳と後藤新平の関係が記述されています。『後藤新平の才能を見出し、愛知県病院長から内務省衛生局への採用を後押しした。そして相馬事件で後藤が衛生局長を非職となり、失脚しても長与専斎と異なり後藤を見捨てず、その後ろ盾となり、日清戦争の検疫事業を後藤に担当させることを陸軍次官兼軍務局長の児玉源太郎に提案した。検疫事業の成果により後藤は内務省衛生局長に復職し、また児玉に認められたことが、児玉台湾総督の下で後藤が台湾総督府民政長官に起用されるきっかけとなった』。石黒忠悳の御魂が上がるよう光を降ろすと「八咫烏亀派」と伝えられました。
八咫烏亀派は、米国・朝鮮・ロックフェラー・統一教会の支配層勢力です。《ロックフェラー財団によって日本に置かれた保健所網》にありますが、日本の医療の闇が深くなった要因の1つは、保健所網を張り巡らして米国ロックフェラー財団です。新潟大学の情報はwikiにあります。『新潟大学は、新潟県新潟市西区五十嵐2の町8050番地に本部を置く日本の国立大学である。1870年創立、1949年大学設置。大学の略称は新大(しんだい)。[概観]〈大学全体〉新潟大学は、旧制大学の流れをくみ旧官立大学の一つである。特に、医学部は旧六医科大学の一校である旧新潟医科大学を直接の起源にもつ。
そのほか、人文学部、法学部、経済科学部及び理学部はネームスクールの一校である旧新潟高等学校を起源にもつ。一期校である。令和元年度(2019年度)国立大学法人運営費交付金の額は約163億円で、全国立大学86校中14位である。旧新潟医科大学、旧新潟高等学校などを主な母体として1949年に開学した。2021年(令和3年)現在、10学部・5研究科・脳研究所・災害復興科学センター等の研究機関を擁する、本州日本海側において最大規模の総合大学である。2021年5月1日時点での総学生数は12,173人。発足当初は県内にキャンパスが点在していた。
しかし、統合移転により新潟市郊外西部にある広大な五十嵐キャンパスと、市中心部に構える旧新潟医科大学以来の医歯学系学部が集まる旭町キャンパスに集約された。その他他に、旭町キャンパスに隣接する西大畑地区(旧新潟高等学校跡地)に教育学部附属学校(小学校、中学校、特別支援学校)が置かれている』。新潟大学の現・学長は「牛木辰男(うしきたつお)です。経歴はwikiに記されています。『牛木辰男(1957年-)は、新潟県糸魚川市出身の医学者、解剖学者、医師。電子顕微鏡を用いた顕微解剖学研究を専門とする。第16代新潟大学学長(2020年2月1日~)。国立大学協会副会長。日本解剖学会常務理事。
日本顕微鏡学会前会長(2017~2018)。[経歴]・1957年07月-新潟県糸魚川市に生まれる。・1976年03月-新潟県立高田高等学校卒業。・1982年03月-新潟大学医学部医学科卒業。・1986年03月-新潟大学大学院医学系研究科博士課程修了。医学博士。・1986年04月-岩手医科大学医学部
助手(第二解剖学講座)。・1988年11月-同講師。・1990年01月-北海道大学医学部 助教授(第三解剖学講座)。・1995年09月-新潟大学医学部 教授(第三解剖学講座)。・2001年04月-同大学院医歯学総合研究科に配置換、同医学部教授に併任。・2004年04月-新潟大学教授医歯学系(顕微解剖学)に配置換。・2012年02月-新潟大学医学部副学部長(~2014年1月)。
・2014年02月-新潟大学医歯学系長(~2018年1月)、新潟大学医学部長(~2018年1月)、新潟大学大学院医歯学総合研究科副研究科長(~2016年3月)。・2018年02月-新潟大学理事(国際担当)・副学長。・2020年02月-新潟大学学長(任期:2020年2月1日~2024年1月31日)。・2021年01月-学長専任に伴い顕微解剖学分野教授を退任。芝田晋介(前:慶応義塾大学医学部講師 電子顕微鏡研究室)が同分野教授として着任。・2021年06月-国立大学協会副会長』。新潟大学の学長・牛木辰男に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「創価」と伝えられました。支配層の創価工作員の役割を担っているようです。(つづく)