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尾瀬-wikiの「歴史・年表」の項目に記載されている人物をピックアップして調査とワークを進めて行きました。まず、「木暮理太郎(こぐれりたろう)」を選びました。尾瀬-wikiには『1889(明治22)木暮理太郎が尾瀬を通過』と記されています。木暮理太郎の経歴はwikiに記載されています。『木暮理太郎(1873-1944)は、群馬県太田市寺井町出身の登山家。[概説]1873(明治6)127日、群馬県新田郡寺井村(現・太田市寺井町)の農家の長男として生まれる。東京の私立郁文館中学校を卒業後仙台の旧制第二高等学校に進み1897(明治30)に卒業した。

 

さらに東京帝国大学に進学しはじめ哲学科、ついで史学科で学んだが、中途退学した。その後は博文館の雑誌「ハガキ文学」の編集に従事し、「泰西名画鑑」を著した。1907(明治40)からは東京市史料編纂室嘱託となり、亡くなるまで東京市史稿編集に携わった。若年時から登山を趣味としていたが、田部重治と知り合ったことをきっかけに1913(大正2)9月に日本山岳会に入会した。田部と共に、詳しい地図がまだ作成されていない探検時代の日本アルプスや秩父山地に入り、これらの山々の魅力を世に紹介した。単に山に登るだけでなく、山岳展望や登山史の研究、地名の考証にも大きな熱意を示した。

 

人文的な「山岳研究」というべき分野を開拓したパイオニアの一人である』。これまでの経験からプロの登山家など有名な登山家は、実質的に山を封印する役割を担っていると感じます。昔の山伏や修験者の現代版と見ています。修験道の修行者である修験者は、初期の頃は術で結界を張ったりして山を封じていましたが、人間のエゴが大きくなると松取り(松果体収穫)を成すようになり、大きなエゴの闇で封じるようになりました。《稲尾岳の原生林と水の光を封印する照葉樹の森稲尾岳ビジターセンター》にありますが、多くの人が登山をするようになった現在、支配層がビジターセンターを設置して地下を工作拠点としている場所があると見ています。

 

登山家の木暮理太郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「アーク」と伝えられました。支配層の松利権網のDSを構築したアークの宇宙人が憑く工作員の役割だったようです。次は、尾瀬を拓いた先駆者とされる「平野長蔵(ひらのちょうぞう)」です。尾瀬-wikiには『1889(明治22)、平野長蔵らが当時は処女峰だった燧ケ岳の登頂に成功したというのが、比較的古い記録である。・・最初期の自然保護運動は、尾瀬原ダム計画の反対運動であった。尾瀬沼のほとりに住んでいた平野長蔵は、一人でこれに反対。発電所の建設に反対するために、尾瀬への定住を始めたという』と記されています。

 

平野長蔵の経歴はwikiにあります。『平野長蔵(1870-1930)は、福島県南会津郡檜枝岐村出身の自然保護活動家。尾瀬を拓いた先駆者であると同時に、その自然保護に取り組んだ。山小屋・長蔵小屋の初代主人。福島県南会津郡檜枝岐村出身。号に尾瀬沼山人。平野長英は息子。平野長靖は孫。[生涯]明治3(1870)810日、福島県南会津郡檜枝岐村に、平野伝八の三男として生まれる。父の死により、小学校に通えたのは3年までだった。1889(明治22)8月、19歳の時燧ヶ岳に登頂、登山道を開く。翌1890(明治23)に燧嶽教会を開設して祭祀を始めた。同年沼尻(ぬしり)に近い押出(おんだ)し沢に長蔵小屋の前身となる行者小屋を建設。

 

1894(明治27)「燧嶽神社附属愛国講社」を結成。1902(明治35)舘岩村(現・南会津町)のトメと結婚。今市(栃木県)で行商をして生計を立てる。1910(明治43)尾瀬沼尻に小屋を建てる。尾瀬での養魚事業を企図し、和井内貞行に照会してヒメマス養殖を試みる。1914(大正3)9月、「尾瀬沼区画漁業権」を獲得するも、養魚事業は失敗に終わった。1915(大正4)、尾瀬沼東岸の現在地に長蔵小屋を建設し引っ越した。1922(大正11)、関東水電が尾瀬の水利権を獲得、尾瀬ヶ原をダムにし、尾瀬沼・尾瀬ヶ原間と至仏山にトンネルを掘り発電所を作る計画を発表。

 

長蔵は単身上京して、同年726日付で当時の水野錬太郎内務大臣に宛て、請願を提出した。1930(昭和5)820日、長蔵小屋で倒れ死去。尾瀬・ヤナギランの丘に埋葬される。[エピソード]牧野富太郎が尾瀬で植物採集した際にあまりに植物を採るので、研究するだけでなく保護を考えろと叱ったというエピソードがある』。経歴から平野長蔵は、体制派と反体制派の対立構図を意図的につくる同和工作を成すサンカ工作員だと感じます。右翼と思われる神道系宗教結社も設立しています。昔の山伏や修験者の流れを汲んでいると感じます。自然保護の働きをしていると見えますが、実質的にはエゴの闇で自然の光を覆っています。

 

サンカの源流は、渡来人の支配層の配下の光の先住民でした。しかし、支配層に松取りの現場工作を強いられ、エゴが増幅して自然の光を封印する土着の闇に変遷してきました。そもそも先住民はシリウスと繋がっており、山の洞窟に居住していました。本来は山の民です。そこから「山窩(サンカ)」と呼ばれるようになりました。サンカは、シリウスの闇と繋がっている故に、術を使うことができます。平野長蔵の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「シリウス。サンカ」と伝えられました。やはりシリウス系のサンカ工作員の役割を担っていました。

 

wikiに掲載されている平野長蔵の写真も髭を生やした仙人のような風貌であり、シリウスの術師であることが頷けます。次に、植物学者・登山家である「武田久吉(たけだひさよし)」に着目しました。尾瀬-wikiの「関連項目」には『武田久吉:「尾瀬の父」と呼ばれる植物学者、登山家』と記述されています。武田久吉の経歴はwikiに記されています。『武田久吉(1883-1972)は、東京府(現・東京都)出身の植物学者、登山家。[略歴]イギリスの外交官アーネスト・サトウと日本人の武田兼との間に生まれた次男。1901年に府立一中を卒業し、東京外国語学校で語学を学ぶ。1910年にイギリスに留学、キューガーデンで植物学の研究を始める。

 

1913年に帰国、1915年に再び渡英し、バーミンガム大学で研究し、1916年に色丹島の植物の研究で東京帝国大学より理学博士の学位を授与される。1916年京都大学臨湖実験所講師、1920年北海道大学講師、1928年から1939年まで京都大学の講師を務めた。1905(明治38)に日本山岳会を創立し、のちに同会の第6代会長を務めた。また、初代日本山岳協会会長、日本自然保護協会会長を歴任した。1970(昭和45)に秩父宮記念学術賞を受賞する。197267日、死去した。89歳没。墓所は日光市浄光寺。千代田区富士見2丁目の武田邸跡は法政大学に買収され、80年館(図書館・研究室棟)が建てられた。

 

各地の山を登り高山植物の研究を行い、尾瀬の保護に努めたことから「尾瀬の父」と呼ばれている』。武田久吉は、英国外交官の有名工作員の役割のアーネスト・サトウの子息です。初代日本山岳協会会長、日本自然保護協会会長を歴任しており、重要な支配層の工作員の役割を引継いていたと感じます。また、登山家と同様に有名な植物学者も支配層の工作員として捉えています。「尾瀬の父」と呼ばれる植物学者・登山家の武田久吉の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「尾瀬の番人」と伝えられました。やはり大事な光の地である尾瀬の湿原を封じる工作員の役割だったようです。(つづく)