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上野村公式サイトの《村の概要》には、以下の沿革情報が記載されています。『上野村の人の歴史は古く、村域の中央を流れる神流川の周辺からは、縄文土器や石器類の出土が見られ、神話の中では、日本武尊が軍勢を率いてこの地を通過した、などの伝説が残っています。村落としての発祥は、文治年間(118589)木曽義仲の家臣、今井四郎兼平の一族が追われ、この地に土着したことが最初だと伝えられています。その後、武田の家臣小幡守総介の支配となり、天正18(1590)、徳川氏が関東を統一し、慶長8(1603)の開幕に伴い、幕府直轄の天領として代官支配地となりました』。

 

これまでの日本の過去の歴史から2つの勢力が戦(いくさ)などの戦いになった場合、敗者の勢力が裏に回り松取りの現場工作員であるサンカの役目になっていると感じています。《沖縄県うるま市の平安座島に残る平家落人伝説と松関連地下施設の可能性が浮かぶ「沖縄石油基地」》にありますが、代表例が「平家の落人」です。源平合戦で敗北した平家の落人たちは、日本各地に散在しました。そして、サンカの役割となり松取り(松果体収穫)を成すことで、自然豊かな土地の光を封印してきました。平家の落人伝説が残る場所は、大事な光の地がサンカの土着の闇によって暗闇にされてきたことを暗示します。

 

この上野村も敗走した今井四郎兼平の一族が根づいた場所であり、サンカの村になったことが示唆されます。上野村の村落の関係者として木曽義仲の家臣「今井四郎兼平」「木曽義仲」と武田の家臣である「小幡守総介」とワーク対象に選びました。上野村に最初に土着した人物であり、上野村の村落としての源流となるのは「今井兼平(いまいかねひら・今井四郎兼平)」です。今井兼平の経歴はwikiに記されています。『今井兼平は、平安時代末期の武将。正式な名のりは中原兼平(なかはらのかねひら)。父は中原兼遠。木曾義仲の乳母子で義仲四天王の一人。

 

兄に樋口兼光がいる。現在の長野県にあたる信濃国今井の地を領して今井を称した。義仲の乳母子として共に育ち、兄の兼光と共に側近として仕える。治承・寿永の乱では治承4(1180)の義仲挙兵に従い、養和元年(1181)5月、横田河原の戦いで城助職を破る。寿永2(1183)、般若野の戦い・倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで平家軍を破り、7月には平家を都落ちさせて義仲と共に入京。10月、福隆寺縄手の戦いで妹尾兼康を破る。11月、後白河法皇と義仲が対立した法住寺合戦では、兼平・兼光兄弟の活躍が著しかった。

 

元暦元年(1184)正月20日、鎌倉軍に追われ敗走する義仲に従い、粟津の戦いで討ち死にした義仲の後を追って自害した。享年33。その壮絶な最期は、「平家物語」あるいは「源平盛衰記」の「木曾殿最期」の山場としての乳兄弟の絆の強さを示す逸話として知られる』。個人的には、少なくとも源平合戦の時は、戦争の裏で松取り工作が成されていたので、源氏と平氏の上層部が手を組んでいたと見ています。武士の戦における勝敗についてネットで調べると『主にどちらかの軍が敗走することによって決まりました。

 

大将の討ち死にや自害で決着がつくこともありましたが、これは稀なケースでした』と記されています。何ともいかさま臭い感じがします。やはり戦を指揮する大将や軍師などの上層部が戦争工作に深く絡んでいると感じます。上野村の村落としての源流となる今井兼平の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「サンカ」と伝えられました。やはりサンカの役割を担っていたようです。今井兼平の主君の源義仲(みなみとのよしなか・木曽義仲)の経歴はwikiにあります。『源義仲は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義賢の次男(河内源氏は日本の第56代清和天皇を祖とする清和源氏の一流)

 

源頼朝・義経兄弟とは従兄弟(いとこ)にあたる。木曽義仲(きそよしなか)の名でも知られる。「平家物語」においては朝日将軍(あさひしょうぐん・旭将軍とも)と呼ばれている。以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、俱利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉で荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍(征夷大将軍)となる。

 

しかし、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた』。源氏一族の中で起きた内乱や戦は、明らかに若い兵士や市民を犠牲にした松取り工作だと捉えています。源義仲の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「裏インド」と伝えられました。「裏インド」とは、簡単に言えば、命を金などの利益に換える松取り工作の闇のことです。その後、現在の上野村の地を支配したのは、武田の家臣の小幡信真(小幡守総介)です。小幡信真の経歴はwikiにあります。『小幡信真(おばた のぶざね)は、戦国時代の武将。

 

上野国甘楽郡小幡郷の国衆。国峯城城主。一般的には信貞(のぶさだ)としても知られている。後年には武田二十四将に数えられる。[生涯]〈出自〉父は国峯城主・小幡憲重(重定)。母は箕輪城主・長野業正の娘。正室も長野業正の娘とも伝えられているが、これは父の事跡との混同である。上野小幡氏は国峯城を中心とし上野国甘楽郡一帯に勢力を持つ国衆で、関東管領の山内上杉家に仕えていた。上杉憲政を関東管領に擁立するなど、長野氏と並ぶ有力な存在であったが、後に憲政と対立すると離反して武田晴信(信玄)に仕えた。

 

天文22(1553)、信濃国塩田城にいた武田晴信に「小幡父子」が出仕し(「高白斎記」)、これが憲重父子を指すと考えられている。その後晴信から偏諱を得て元服し、信実を称した』。戦国時代は、主君を裏切って新しい主君に仕えることも多々あるようです。武士自体が刀を所持しており、本来は貴族の領地のガードマンとしての現場工作員のサンカの役割と言えます。現在の上野村の地を支配した戦国時代の武将・小幡信真の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「サンカ」と伝えられました。やはりサンカの役割であり、松取りの闇に由来する重たい土着の闇となったようです。(つづく)