
上野村-wikiの「歴史」の項目に、支配層の工作と思われる秩父事件の記述があります。『1884年(明治14年):秩父事件が起こる。上野村では黒沢鞍十郎を中心に蜂起』。幕末維新の時には、支配層によって、攘夷派と開国派、佐幕派と討幕派などの2つの勢力が対立する構図がつくられました。これらの2つの勢力を戦わせることで、支配層が松利権という裏金を得てきたのです。いわゆる戦争と同じ、支配層による松取り工作が各地で企てられました。天狗党の乱(1864年)、佐賀の乱(1874年)、秋月の乱 (1876年)、萩の乱(1876年)、西南戦争(1877年などがそうです。
秩父事件は、埼玉県秩父郡で発生した、農民と士族による政府への武装蜂起事件です。当然、支配層の松工作だと感じます。秩父事件の情報は《コトバンク》に記載されています。『[秩父事件]1884年埼玉県秩父郡で自由党員と農民が蜂起(ほうき)した自由民権運動激化事件。1881年以後の経済不況と政府の財政方針の影響により,養蚕や製糸を副業とするこの地方の農家は大量に没落,高利貸の支配下におかれた。1883年農民代表落合寅市らが郡役所に負債の返済延期などを請願したが拒否された。1884年の初めから自由党に加盟する中小農民が増加。負債返弁運動と結合し困民党が組織された。
田代栄助を首領とし,高利貸に対する返済延期・学校費節減のため小学校の3年間休校,村費・雑収税減免などを要求する請願運動を展開したが不成功。10月群馬,北信州の自由党員と連絡。10月31日風布(ふっぷ)村が蜂起。田代を総理に農民軍を組織し,11月2日大宮郷に突入,郡役所,警察,高利貸を襲撃し全秩父郡を支配。4日警察,軍隊に制圧された。しかし本陣解体後も,菊地貫平をリーダーとして逃走・転戦した100余名の部隊は7日信州南佐久郡に現れ,その地の農民を結集して高利貸を襲撃,9日警察,軍隊により解体させられた。事件後の処罰者は4500名を超えた』。
秩父事件の死者数についてのネット情報は見つかりませんでした。wikiには『この事件で警察官5人が殉職した。事件後、約1万4千名が処罰され、首謀者とされた田代栄助・加藤織平・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・菊池貫平・井上伝蔵の7名には、死刑判決が下された(ただし、井上・菊池は欠席裁判での判決。井上は北海道に逃走し、1918年にそこで死去した。菊池はのち甲府市で逮捕されたが、終身刑に減刑され、1905年出獄し、1914年に死去)』と記されています。事件自体が工作なので死者数などの数字も真実に値するものとは感じられません。
また、《秩父観光協会公式サイト》には、『蜂起参加者は最盛時8,000人とも10,000人ともいわれるが、有罪判決を受けた者3,390余人(最高幹部は死刑ないし無期懲役)官憲の調書に名を残した者4,200余人、その内の約4分の1が旧吉田町の人間だった。明治政府は、この戦闘で死亡したり負傷したりした軍人や警察官の処遇にあたって、これを西南の役に準ずる「戦争」として扱い、その戦況や結末の報告は大政大臣から明治天皇のもとにまで届けられている』と記されています。蜂起参加者は最盛時8,000人~10,000人だったとすると死者も相当な人数だったと想像されます。多くの人々が支配層の松工作の犠牲になったと推察しています。
天皇を頂点とする支配層・八咫烏は、こうした2つの勢力を戦わせて松利権を得る工作を常套手段としてきました。wikiにありますが、秩父事件の衝突した勢力は、蜂起した「秩父困民党」と「日本国政府」です。1884年10月31日-11月10日に衝突事件が埼玉県秩父郡・群馬県多野郡・長野県佐久郡などで起こり、政府軍の勝利という結果になっています。「秩父困民党」のトップであった総理の田代栄助(たしろえいすけ)に着目しました。田代栄助の経歴はwikiにあります。『田代栄助(1834年-1885年)は江戸時代から明治時代にかけての侠客、明治初期の代言人。秩父事件では困民党の総理として無血蜂起を指揮した。
[人物]田代勇太郎嘉之の子として武蔵国秩父郡大宮郷字熊木(現・埼玉県秩父市熊木町)に生まれる。実家はかつて忍藩の割役名主を務めたこともある名家であった。農業を営むかたわら、他者の賃借などについて仲裁を行ったり、困窮者の手助けを行ったり、放浪者を救ったりするなど弱者に優しく、秩父の郡民からは非常に信頼されており、慕うものが200人を越えるほどだったという』。田代栄助は「侠客(きょうきゃく)」だとありますが、端的に言えば、「任侠ヤクザ」の反社です。反社は、当然、支配層の裏の仕事を担っており松取り工作も行っていたと感じます。
秩父事件の武装蜂起集団「秩父困民党」のトップの総理の田代栄助の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。明らかに田代栄助は、農民などを扇動した支配層の政府軍と通じていた工作員だったと感じます。また、秩父事件において、上野村で蜂起を先導した黒沢鞍十郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「亀派」と伝えられました。八咫烏亀派(米国・朝鮮・ロックフェラー・統一教会)の勢力の工作員の役割だったようです。秩父事件から分かるように、明治時代から上野村で支配層と組んで庶民を犠牲にする工作に加担するサンカ・反社のリーダーが存在していたのです。
上野村の支配層の調査とワークを進めました。ワーク対象として上野村の村長・村議会議長・観光協会会長・商工会会長をベースに選びました。上野村の村長は「黒澤八郎(くろさわはちろう)」です。黒澤八郎の経歴は《自治体問題研究所》に記されています。『1961年生まれ。1980年4月
上野村役場奉職、企画財政課長、振興課長、総務課長を歴任。2017年6月
上野村長就任、現在2期目。全国小さくても輝く自治体フォーラムの会副会長、バイオマス産業都市推進協議会副会長』。上野村の村長・黒澤八郎に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「サンカ」と伝えられました。
やはり支配層の松工作の現場仕事を担うサンカの役割のようです。上野村公式サイトに《歴代村長》が列挙されています。初代村長の茂木要次郎(明治22(1889)年5月-明治25(1892)年5月)から15代(現)村長の黒澤八郎(平成29(2017)年6月-現在に至る)までの歴代村長15人の氏名が掲載されていますが、7人が黒澤(黒沢)姓なのです。秩父事件において上野村で蜂起を先導した人物も黒沢鞍十郎で黒沢姓です。少なくとも明治時代から黒澤(黒沢)一族がサンカのリーダーとなり日本の支配層と手を組んで上野村の村人を支配してきたと感じます。さらに、wikiには、上野村の観光地として、国の重要文化財の「旧黒澤家住宅」が掲載されています。
上野村を支配してきた黒澤一族だと見ています。グーグルマップで「旧黒澤家住宅」を観ると、「旧黒澤家住宅」から南東方向に約200mの場所に「慰霊の園 慰霊塔」が置かれています。「慰霊の園 慰霊塔」は、1985年8月12日に羽田空港発伊丹空港行き日本航空123便が御巣鷹の尾根に墜落した「日航機墜落事故」の犠牲者の慰霊碑です。旧黒澤家住宅の近くに慰霊碑がつくられたことは黒澤家の表裏の力の象徴だと窺えます。旧黒澤家住宅-wikiには、黒澤家の出自の情報が記されています。『黒澤家は桓武平氏の流れをくむと伝え、黒澤左馬助重時は弘治2年(1556年)ごろに北条氏の家臣として下野皆川城主であったという。
北条氏滅亡後に現在の地に移住し、江戸時代には上野村から万場町までの地域の大総代(大庄屋に相当)を務めた。旧黒澤家住宅の建築年代に関する記録はないが、前身建物が約200年前ごろに火災で焼失し、その後建てられたという伝承があり、建築様式からみて19世紀中頃の建築と推定される』。黒澤家は、北条氏の家臣だったといいます。北条氏は、鎌倉幕府を開いた源頼朝を背後で操っていた氏族であり、支配層八咫烏の中核だったと見ています。それ故、上野村を支配してきた黒澤一族は八咫烏の配下のサンカだったと捉えています。(つづく)