常磐炭鉱中郷鉱跡


2025
11月、反社会的勢力(反社)25億円超の巨額資金を提供していた「いわき信用組合の不正融資問題」が大手メディアで報道されました。「いわき信用組合の不正融資問題」については、20251128日の記事《特別調査委員会や大手メディアも反社がどこなのかを公表しない「いわき信用組合の不正融資問題」》などのシリーズの7つの記事で調査とワークを行って真相追究をしてきました。結論的に言えば、幕末維新からの福島県いわき市に根づいてきた土着の闇となるサンカによる重く汚い闇となって深い暗闇が形成されてきたと捉えています。いわき市が深い暗闇に成った大きな原因の1つが「常磐(じょうばん)炭田」です。

 

常磐炭田は、福島県いわき市を中心にして、福島県いわき市から茨城県日立市に跨る関東一の炭田です。また、ちょうど202511月頃から20261月位までの長期間、私の右側の首すじの軽痛と凝りの症状のサインが続いていました。サインは、祈りのワークで光を降ろす場所を教えるヒントでした。ヒントから福島県いわき市、茨城県日立市、水戸市、東海村について支配層と土地・自然の闇の解除・統合のワークを行ってきました。「いわき信用組合の不正融資問題」から行き着いた「常磐炭田」は、日本の首都圏に近い大規模炭田であり、支配層の大きな松利権が潜んでいる場所でした。

 

戦時中に多くの朝鮮人の強制労働が成され支配層の松利権の闇が潜む三菱マテリアル経営の佐渡金山》などの記事にありますが、古くから炭鉱・鉱山などの採掘場では、支配層によって労働者を犠牲にした松取り(松果体収穫)が裏で成されてきました。労働者を犠牲にした松工作の手法は、表の金儲けと裏の金儲けの一石二鳥となる工作です。非常に深い闇に変えられた福島県いわき市の地が本来の光を取り戻すためには、「常磐炭田」をスルーせずにはいられないので、今回、「常磐炭田」の調査とワークを行うことにしました。「常磐炭田」の情報はwikiに記載されています。『常磐炭田とは、19世紀後半から20世紀前半にかけて、福島県双葉郡富岡町から茨城県日立市までに広がって存在した炭田である。

 

夜ノ森と久慈川に挟まれた沿岸地域に立地していた。常磐炭鉱(現・スパリゾートハワイアンズ)は浅野財閥の磐城炭鉱と大倉財閥の入山採炭が第二次大戦中に合併し設立された。「常磐」は、令制国名の「常陸国」と、明治旧国名の「磐城国」の頭文字を取って付けられた名称である。「常」は水戸藩など現在の茨城県(西南部を除く)に、「磐」は磐城平藩に相当する地域である。[歴史]戊辰戦争が終結した直後、神永喜八、片寄平蔵らにより発見された。明治初期の1870年代から、茨城県北部(旧水戸藩領)から福島県浜通り南部(旧磐城平藩領)にかけての海岸線に面する丘陵地帯にかけて、大規模な炭鉱開発が行われた。

 

これは、首都圏に最も近い炭鉱として注目されたためである。しかし硫黄分を多く含有し、純度の低い炭質(低品位炭)という不利な条件があり、さらに地層が激しい褶曲を受けているため、石炭層を求めて地下へとひたすら掘り下げる、高い掘削技術を要する炭鉱であった。地下水が多く、温泉も湧き出すため坑内は暑く過酷な環境で、1トンの石炭を採掘するのに4トン程度の地下水が湧き出すともいわれ、当時の世界最大級の排水ポンプを並べるなど採炭コストも高かった。しかし首都圏に最も近い大規模炭田であり、また石炭以外にも銅を産出する地域(日立銅山)も含まれていたので、第二次世界大戦前には首都・東京に近い鉱工業地帯として発展した。

 

1924(大正13)8月、湯本町の入山炭鉱でガス爆発事故が発生。また、1927(昭和2)327日、内郷町の内郷炭坑町田立坑で坑内火災が発生。救助隊の二次災害による被害も含め死者131人。 さらに1935(昭和10)530日、再び入山炭鉱でガス爆発事故が発生。死者48人を出した。1947(昭和22)85日には昭和天皇が福島県に行幸。湯本第6坑内を視察して作業員を激励した。天皇が実際に坑内(地下1,500)まで視察したことは初めてのことだった。その年の1020日、坑内で爆発事故が発生。死者11人、重軽傷20人。1956(昭和31)37日には、常磐炭鉱磐崎坑の中斜坑でガスが自然爆発、さらに50m離れた場所で落盤が発生。

 

14人が閉じ込められて窒息死する事故となった。1961(昭和36)1012日には北茨城市の磯原炭鉱で落盤が発生して3人が死亡、同年1024日には十王町の十王炭鉱で落盤が発生して2人が死亡する事故が、茨城県内で立て続けに起きた。1960年代になるとエネルギー革命と高度経済成長が起こる。石炭は慢性的なコスト増で産出資源の競争力が失われた。さらに、マッチ用の燐や化学工業原料、火薬などの用途があった副産物の硫黄資源も、技術革新によって石油の脱硫処理から硫黄がより容易に生産されるようになり、市場から駆逐された。各鉱は採算が次第に悪化していった。

 

最後まで残った常磐炭礦(1970年から常磐興産)の所有する鉱山も1976(昭和51)に閉山し、常磐興産は炭鉱業自体も1985(昭和60)に撤退した』。常磐炭田を開発する炭鉱では、幾度も落盤事故を含めた鉱山事故が発生し、多くの労働者が犠牲になってきました。これは、多くの場合が、松製品の原料となる遺体を集めるための支配層による松利権工作だと見ています。佐渡金山や九州の炭鉱など全国各地で、多くの労働者が犠牲となる松工作が秘密裏に成されてきたのです。1947(昭和22)85日に昭和天皇が福島県に行幸し、常磐炭鉱に立寄ったことは、天皇が松果体摂取を行ったという証だと捉えています。

 

昔から天皇が旅する行幸は、記念碑などが設置されており、その地が松取りの闇が置かれたことを示唆します。まず、常磐炭田の発見者である「神永喜八(かみながきはち)」と「片寄平蔵(かたよせへいぞう)」をワーク対象に選びました。神永喜八のプロフィール情報は《神永喜八と採炭創業》に記されています。『石炭を商品として閧発したのは上小津田村の神永喜八である。喜八は文政七年(一八二四)神永喜衛門の長男として生まれ、農業のかたわら醤油醸造や材木商を営んでいた。喜八は二八歳の時、材木取り引きのため江戸深川に出かけたが、その時上方の人より石炭の効用について教えられた。そこで喜八は近くに産出する燃える石を商品化しようと考えたのである。

 

石炭の発見を聞いた江戸深川の商人長谷川与惣次は代理人を喜八宅に遣し、「下総国行徳浜の塩焚場に用いたいので、石炭三百俵を磯原河岸まで採取のうえ積出してほしい」と申し出た。この申し出を受けて喜八は上小津田村字塩ノ平、さらに小豆畑村字芳ノ目などにおいて採炭を始め、そこから石炭三〇〇俵を掘り出し磯原河岸まで馬で運び、船で江戸へ送った。時に嘉永四年(一八五一)のことである。塩焚き用燃料として最初に使用された当地方の石炭、これが常磐地域から石炭を商品として売り出した最初のものであった』。また、片寄平蔵のプロフィール情報は《かつて栄えた常磐炭田、片寄平蔵(福島県いわき)》に記載されています。

 

1813文化10210日、石城郡大浦村大字大森(たたもり)に生まれる。長ずるにおよんで頭脳明晰、進歩的考えの持主で、材木商を営んでいた。1849嘉永28月、秋田へ木材買い出しに出かけ、雄勝郡河井村の菅運吉によって発見された、きわめて立派な桐の木―周囲284寸、枝下10間余、その葉当百銭大を幕府に献上したところ、稀世の美材とあって賞美され、苗字帯刀と乗馬を許された。1855安政26月、平町の南新川で数個の黒い石を拾い上げ、好奇心から火中に投じたところ、黒い石が燃えた。平蔵は以前、江戸の石炭商・明石屋治右衛門から石炭について聞いた事があり、大いに興味をもった。

 

平蔵部下の白水の住人、高崎今蔵が坑夫を連れて探礦隊で出て、三函嶽の麓、弥勒沢で石炭を見つけた。ただし、平蔵は笠間藩領の人間で、湯長谷支配地の白水で採掘することができなかった。藩主内藤侯の許可を得るため、白水の里正(庄屋)に相談して手続きをした。一俵につき銀一匁を上納して、小名浜より海上石炭を江戸に送って販路を開いた。また、石炭油(コールタール)の製造にも成功し、内藤侯に献上している。1858安政510月、幕府は品川に軍監繰練所をつくり、軍艦に必要な石炭を平蔵に注文した。御用石炭買い上げの命により、平蔵は選炭3000俵を上納し石炭御用達となった。この莫大な注文は、いわき地方の石炭業を活発にする大きなきっかけとなった。

 

1859安政6年、ペリー来航。横浜開港が決まり、平蔵は外国奉行所に願い出て同地に、石炭販売所を設けた。そして、石炭はもちろんのこと、いわき地方の特産物である和紙(上遠野和紙)や、干しシイタケも輸出する事にした。江戸や横浜に搬送する雑貨類の輸送費は石炭と一緒にすれば安く、利益が大きかったと思われる。片寄平蔵は、開国と攘夷にゆれる幕末の時期に、外国貿易に身を挺してとりくみ、横浜の町作りにも尽力。横浜の町人たちは「開港の恩人」として、平蔵を神として祭っている(みろく沢炭鉱資料館)1860万延元年83日死去。47歳』。常磐炭田の発見者である神永喜八片寄平蔵の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「創価」「殺されたか、裏に潜った」と伝えられました。いずれも支配層の工作員の役割だったと感じます。(つづく)