
千葉工業大学の設立に関係した人物についての情報はwikiの「歴史」に書かれています。『千葉工業大学は、1942年(昭和17年)5月15日に国家中枢を担う人材養成を目指し太平洋戦争に中に設立されたが、日本の敗戦後は、もっぱら現存する日本最古の私立工業大学として中堅技術者の育成という役割を担ってきた。しかし、近年は「建学の精神に帰ろう」を合言葉に自学の建学精神をもう一度見直し、現在は「世界文化に技術で貢献する」を目標に国家や社会で活躍する理系人材の養成を目指して建学以来の大改革を行っている。本学の基礎は、教養教育においては小西重直博士、小原國芳博士、本間俊平によって、工学教育においては本多光太郎博士、八木秀次博士によって築かれた。
千葉工業大学の原点は創立者でもある小原國芳が京都帝国大学の学生時代に構想した理想の教育をする「夢の学校」計画に起源を発する。そして、明治から昭和時代までの教育者・小原國芳と小原を取り巻く教育者たちの体験と研究に基づき理想が具現化されていったものである。その理想の教育精神とは小原らが、実際に明治から昭和にかけて実際に教育現場に携わる中で得てきた膨大な知見を柱に、東西の先人たちが行ってきた教育を研究しながら、小原國芳が導き出していったものであった』。wikiの内容から、千葉工業大学の創立者である小原國芳、教養教育に主軸となった小西重直、本間俊平、工学教育の主軸となった本多光太郎、八木秀次をベースにワーク対象を選びました。
千葉工業大学の創立者・小原國芳(おばらくによし)の経歴はwikiに記されています。『小原國芳(1887年-1977年)は、鹿児島県川辺郡南方郷久志村(現・南さつま市坊津町久志)出身の教育学者。学校法人玉川学園の創立者。永野修身海軍大臣直属海軍教育顧問なども務めた。日本基督教団のクリスチャン。また、小原は日本だけでなく、朝鮮半島や満洲、中国大陸、そして台湾などのアジアの各地を広範に歩き回って「新教育」の重要性を説き、伝える役割を果たした。一時期「鯵坂」姓を名乗った。[生涯]早くに母を亡くす。祖父は寺子屋の師匠だったが、家が没落したため進学ならず、13歳で通信技術養成所に入所し、鹿児島大浜海底電信所の技手となった。
向学の念を抑え難く、18歳で電信所を辞めて鹿児島県師範学校に入学し、興味のあったキリスト教を学ぶために訪ねた教会で小学生の授業を頼まれたのをきっかけに毎週教会に通うようになり、洗礼を受ける。父親の借金返済問題から郷里の素封家「鯵坂家」の養子となったことで、1909年に広島高等師範学校英語科に進学することができた。同校卒業後、1913年に香川師範学校教諭となり、授業に独自の手法を取り入れた。1915年、29歳で京都帝国大学文学部哲学科に入学し、1918年に卒業。京大時代には、のちに湘南学園設立のきっかけとなる藤江富佐から多大な支援を受け、のちに養家の鯵坂家を出る際には借金返済の援助もしてもらった。
大学卒業後、広島高等師範附属小学校教諭・理事(教務主任に相当)となる。1919年、澤柳政太郎が成城学園を創設するに当たり、長田新の推挙で成城小学校主事(訓導)として赴任。1926年、
成城高等学校(7年制)校長となる。一連の騒動によって最終的に小原は成城学園から身を引き、玉川学園での教育に専念することとなった。玉川学園はその後、幼稚園・小学部・中学部・高等部・大学・大学院を揃えた大規模な総合学園に成長した。小原は玉川学園を創立すると同時に、最高学府である大学の創立に向け準備を整え、1942年(昭和17年)に東久邇宮稔彦王と永野修身元帥の働きかけもあり、玉川学園内に興亜工業大学を創立した(現・千葉工業大学)。
私立大学ではありながら、文部省の指導を受ける国策的な意図を持った大学であり、国家枢要を担う人材の養成を行うための拠点として整備される一方で、小原が唱えた全人教育等の教育理念が建学の精神として採り入れられた』。千葉工業大学の創立者・小原國芳は、鹿児島県(旧薩摩藩)出身で海軍やキリスト教にも関係しており、玉川学園の創立者です。成城学園の拡大や湘南学園の創立にも関わっていました。玉川学園と創立者の小原國芳については《純粋な魂の光を封じる松果体利権が隠されたキリスト教教育》で調査とワークを行っています。その際に小原國芳にも光を降ろしており「松利権の肝」と伝えられました。
学校教育のベースは支配層の裏金となる松利権の闇の仕組と捉えています。学校の源流は、キリスト教などの宗教が絡んでおり松果体収穫の闇が潜んでいると見ています。暗闇の環境を構築するために、児童や生徒など若い人たちの純粋な魂の光を封印する仕組となっているのです。千葉工業大学の創立者・小原國芳の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「日本人じゃない。中国。創価」と伝えられました。やはり、支配層・八咫烏鶴派(欧州・中国・ロスチャイルド・創価学会)の工作員の役割だったようです。千葉工業大学は、国家中枢を担う人材養成を目指し太平洋戦争に中に設立されました。
大日本帝国軍が主体となる国策によって設立された理系の大学です。創立者の小原國芳も八咫烏工作員である故に、千葉工業大学は、松利権が絡む支配層・八咫烏によって設立されたと言えます。千葉工業大学の人物一覧-wikiによると、千葉工業大学の初代学長は「小西重直(教育学)(1942年5月~1947年3月)」、初代理事長は「東郷実(1942年5月~1943年7月)」です。初代理事長の東郷実(とうごうみのる)の経歴はwikiに記されています。『東郷実(1881年-1959年)は、明治から昭和にかけての鹿児島県出身の農学者・植民政策学者・政治家。千葉工業大学初代理事長。[経歴]鹿児島県曽於郡財部町(現・曽於(そお)市)の士族の家に生まれ、9歳で実母を亡くす。
地元の小学校を卒業後、明治27年(1894年)に13歳で勉学のために上京。麻布北新門前町(現・港区東麻布二丁目)の親類宅に寄宿し、東京府立第一中学校を経て、明治32年(1899年)に札幌農学校(現・北海道大学農学部)に入学、植民政策を専攻して明治38年(1905年)に卒業、翌年卒論を「日本植民論」として刊行(序文に新渡戸稲造)。新渡戸の紹介で同年彰化庁嘱託殖産係長として台湾に渡り、明治40年(1907年)に台湾総督府の殖産局農商課に技師として入る。明治42年(1909年)に総督府よりドイツ留学の命を受け、ベルリン大学に留学。2年の留学後英米各地を視察して帰国、明治45年(1912年)に台湾総督府に戻り、総督官房調査課長まで昇った。
大正8年(1919年)に農学博士号を取得。1924年(大正13年)の第15回衆議院議員総選挙に当時の鹿児島7区から政友本党の公認候補として立候補して初当選、以後通算8期当選を果たし、農政通として党内で重きをなす一方、東京商科大学・日本大学・拓殖大学・東洋大学などの講師を務めた』。初代理事長の東郷実も創立者の小原國芳と同じく鹿児島県(旧・薩摩藩)の出身です。これまでの調査とワークから薩摩藩士の多くが支配層・八咫烏の工作員として深い闇の役割を成してきたことが分かっています。千葉工業大学の初代理事長・東郷実の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員。松喰い」と伝えられました。自ら松果体摂取を成しながら松工作員の役割を担っていたようです。(つづく)