
千葉工業大学の人物一覧-wikiによると、千葉工業大学の初代学長は「小西重直(こにししげなお・教育学)(1942年5月~1947年3月)」です。また、小西重直は、千葉工業大学の教養教育の基礎を築いた人物でもあります。千葉工業大学-wikiには、『本学(千葉工業大学)の基礎は、教養教育においては小西重直博士、小原國芳博士、本間俊平によって、工学教育においては本多光太郎博士、八木秀次博士によって築かれた』と記されています。千葉工業大学の初代学長・小西重直の経歴はwikiに記載されています。『小西重直(1875年-1948年)は、山形県米沢市出身の教育学者。第9代京都帝国大学総長。
[生涯]尊敬していた杉浦重剛、中村正直より一字をとり「重直」へ改名した。父は旧米沢藩士・富所幸吉。富所家は一刀流師範を務める家であったが、明治維新後の生活は苦しく、父の死後に母は小西と母子心中を企てた。その後母のいとこである旧会津藩士・小西馬之允の養子に迎えられる。私立日新館、福島尋常中学、二高に学ぶ。二高時代は学費に苦しみ、廃屋や廃寺で生活し、襖を布団代わりにしていた時期もあったが、米沢教育会の援助を受け東京帝大を卒業した。卒業論文は「倫理上の自我」。恩賜の銀時計を授与されている。ドイツ留学を経て、七高校長在任中に澤柳政太郎の招聘を受け京都帝国大学教授に就任。
西洋教育学に広瀬淡窓、細井平洲などの思想を取り入れた独自の教育哲学を確立していく。文学部長在任中に代表的著作である「教育の本質観」、「労作教育」を刊行した。1933年(昭和8年)に京都帝国大学で起きた「滝川事件」の際は、総長を務めていた。この事件は学問の自由と大学の自治を脅かす出来事として後世に語り継がれる出来事として有名だが、小西は大臣の要求を最後まで拒否し続け、総長を辞職した。もっとも小西の態度は煮え切れないもので、文部省・京大各学部と京大法学部間の板挟みになった面はあったものの、滝川事件のような大問題を処理する総長の器ではなかったとの評もある。
なお小西の八方美人ぶりについては、同僚・朝永三十郎の言として「小西君に褒められたってちっとも嬉しくない。原君(歴史学者で史学科教授の原勝郎)に悪口言われてもちっとも腹が立たないように」と言われた程だと言う(松尾尊兊「滝川事件」)。その後、創立に関わった玉川学園・成城学園の顧問を務めながら、自身の持つ教育観を実践し続けた。その実践の一つとして、アジアを支える為の技術者育成を目指し、興亜工業大学(現・千葉工業大学)の創設に関わった。当時の興亜工業大学は全寮制で、帝大に次ぐ工学教育機関として工学を志す優秀な若者が多く入学したと言われている。また、立命館大学予科・立命館中学校学監としても活躍した。
太平洋戦争(大東亜戦争)戦後には、祖国日本の再建のため自ら開墾を行う生活を送ると共に、自らが幼少期にうけた数奇な運命の記憶から、戦争孤児への教育に対する激励と協力を惜しまずおこなうなど教育に人生をかけた人物といわれている。会津会会員』。小西重直の経歴で気になったことの1つが京都帝国大学(現・京都大学)総長だったことです。《1羽のカラスがヒントになった八咫烏のワークと工作拠点の歴史が潜む京都大学》にありますが、京都大学は支配層・八咫烏の工作拠点であり、実質的に優秀な工作員養成所でもあります。故に、小西重直は八咫烏工作員の役割を担っていたと捉えています。
また、小西重直の経歴で、もう1つ気になった点が「会津会会員」だったことです。wikiには『会津会は1912年(明治45年)4月に設立された、会津地方出身者及び縁故のある個人で構成される団体である。松平が総裁、兄の健雄、英夫、恒雄が副総裁に就任し、松平子爵邸に本部を設けた。会の目的は同邸での会合、会報の発行などを行い、会員の親睦を図ることであった』と記されています。wikiによると、会津会の会員は政界・財界・官界の著名人で構成されており、自らの松果体摂取を成し、松製品の販売による裏の金儲けの組織となる支配層の松利権団体の隠れ蓑となっていたと推察します。千葉工業大学の初代学長・小西重直の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。
千葉工業大学)の教養教育の基礎を築いた人物の1人が「本間俊平(ほんましゅんぺい)」です。本間俊平の経歴はwikiに記されています。『本間俊平(1873年-1948年)は、新潟県西蒲原郡間瀬村(現・新潟市西蒲区間瀬)出身の社会事業家、信徒伝道者。山口県の秋吉台(現・美祢市)の大理石採掘場で、不良少年を含む青少年と共同生活を送りながら若者たちの感化(育成事業)に携わり「秋吉台の聖者」と呼ばれた。今日における山口県の主要産業の一つである大理石産業を興した一人としても知られる。[生涯]峰岡小学校入学、初等の3年後、校長の渡辺要人は俊平を特に愛し、俊平を助手にして給与を支払い、困窮する本間家の家計を助けた。
卒業後、中等科に進むもついに家庭の困窮から中途退学を余儀なくされる。1887年(明治20年)に福島県の大工の弟子になる。1891年(明治24年)に松島で、押川方義、植村正久、原田助のキリスト教の講演を聞き、他の大工衆と共に講演を妨害をするも、原田助が「自分たちは殺されても、諸君を不安恐怖の火の中から救い出そうとされた主イエス・キリストの流し給える血を証明せねばならない」との必死の訴えに心打たれる。古本屋で聖書を見つけこれを購入。仙台宮城教会牧師の三宅荒毅のもとに足を運ぶ。1893年(明治26年)北海道庁に勤務、札幌師範学校改築に従事し、両親を呼ぶ。しかし仕事仲間からの中傷で失職、青森から東京まで徒歩にて移動。
1894年(明治27年)には東京の大倉土木組に勤務する。日清戦争の兵倉設営に朝鮮に派遣され、翌年、帰って来たとき、両親の悲運の最期を知り、深い悲しみの中、葬儀をすませる。1896年(明治29年)に遠藤孫一の娘ツキと結婚する。土木組の幹部奥江清之助からキリスト教の感化を受ける。1897年(明治30年)11月7日に24歳で、東京霊南坂教会で留岡幸助より洗礼を受ける。1899年(明治32年)中田重治がきよめ派の人たちの交流会の聖潔の友を結成した際には、メンバーに加わる。1900年(明治33年)東宮御所(現・赤坂迎賓館)御造営局に奉職する。1902年(明治30年)に東宮御所造営のために山口県の大理石山を視察する。
1902年(明治35年)国会議事堂建設の内装に使う大理石の調査に秋吉の地に赴いた本間は、山の所有者であった小川資源にせがまれて官庁をやめ、山口県美祢郡秋吉村で長門大理石採掘所を開いた。俊平29歳、妻24歳、4、3、1歳の3女での新たな挑戦であった。初期の家と作業場はトタン屋根の粗末な小屋程度のもので、日々の仕事や生活自体が精神修養の場となった。大理石の採掘をしながら、出獄人や不良者、世間から見放された若者達と生活と仕事を共にし、更生指導にあたる。彼の事業は2度の破産や幾多の困難を経て、芝浦製作所(現・東芝)の配電盤をほぼ長門大理石採掘所が受注するまでになった。
東京に支社を出したり、朝鮮に大理石を販売するまでになった。現在の美祢市の大理石産業の礎を築いたのは本間俊平の功績と言える』。本間俊平の経歴には、キリスト教徒、大理石採掘場、大工、不良少年の育成事業、東芝などのワードがあり、裏で松取り(松果体収穫)の仕事を成してきたと感じます。千葉工業大学の設立に関与した本間俊平の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松。朝鮮族」と伝えらえました。朝鮮族は、ルーツが中国朝鮮族を示唆しており、実質的には、八咫烏同和派の工作員の役割を意味します。やはり八咫烏のサンカとなる松取りの現場工作員の役割を担っていたようです。(つづく)