
千葉工業大学の学長・伊藤穣一が2023年に発起人となって進めている「沼津倶楽部継承プロジェクト」が気になり追跡することにしました。伊藤穣一-wikiには、『2023年、日本を代表する茶道文化の文化財を次世代に継承することを目的に、林郁、元榮太一郎、佐藤輝英とともに発起人となり、各界の第一人者がアドバイザーとして参画する「沼津倶楽部継承プロジェクト」を開始。国の登録有形文化財として文化庁に登録されている「千本松・沼津倶楽部」の歴史的建築と文化価値の継承、発信を推進』と記されています。「沼津倶楽部継承プロジェクト」の情報については、《沼津倶楽部公式サイト》に記載されています。
『[ご挨拶]この度、林郁の呼びかけにより、静岡県が誇る文化財を国内外に伝え、次世代に継承するという社会的意義のもと、沼津倶楽部継承プロジェクトを開始いたしました。林郁、伊藤穰一、元榮太一郎、佐藤
輝英の4名が発起人となり、各界の第一人者の方々にアドバイザーとして参画いただき、事業の運営は株式会社GREENINGが担います。沼津倶楽部の歴史は、大阪のミツワ石鹸の二代目三輪善兵衛が、1913年に自身の別邸として数寄屋造りの「松岩亭」を建てたことに始まります。現在、登録有形文化財となっているこの建物は、瀟酒な和室、京都より移築された三畳台目の茶席、和洋折衷の洋間などで構成されております。
内装には、現在の技術では再現が難しい吹きガラスを使った窓や大規模な網代天井など、意匠へのこだわりが見られます。戦中は陸軍省に接収され、さらに戦後は大蔵省の管理へ。その後、当時の沼津市長の呼びかけのもと、有志者の出資で「社団法人沼津倶楽部」が発足し、沼津倶楽部を買い戻しました。戦火をのがれた沼津倶楽部は、戦後の政治活動の拠点として、また、その遊び心と贅を尽くした空間を活かし、割烹旅館として大いに賑わったと言われています。しかし、建築後半世紀以上を過ぎた1980年ごろから建物の老朽化が目立つようなり、割烹としての営業も休止状態に。そんな中、株式会社プロジェクトN代表の北山雅史氏が「文化財と言える建築物を将来に残すべき」と援助を名乗りでたのが、2008年のことでした。
「残せるものはすべて残す」ことを基本方針に、傷んだ部分を修繕し、さらに同じ敷地内に建築家
渡辺明氏による宿泊棟「別邸」を設け、宿泊施設「千本松・沼津倶楽部」として再興。新たな息を吹き込まれた沼津倶楽部は、その歴史的、美術的価値が評価され、2015年には国の有形文化財に登録されました。その後、プロジェクトNによる経営は2022年に幕を下ろし、その未来は現・継承プロジェクトチームに託されました。2023年6月より、発起人である林 郁、伊藤穰一、元榮太一郎、佐藤 輝英は、アドバイザーの方々とともに、この貴重な歴史的建築と、ここまで沼津倶楽部が育んできた文化を後世に残したいという、歴代の関係者及び前経営者である北山氏の想いを引き継ぎ、価値の継承と発信を推進していきます。
[プロジェクトの意義]沼津倶楽部の運営を再開するにあたり、建築物とそれに付する文化財を重要な日本の文化として、将来に継承することに重きを置きました。経年劣化した部分は修繕をしながらも、建築の意匠・デザインを可能な限り残しています。有形文化財の建築物である「茶亭」は、席数を増やし、モダンチャイニーズレストランとして運営いたします。茶人でもあった三輪善兵衛に想いを馳せて、茶会などの催しも定期的に開催していく予定です。また、宿泊棟である「別邸」の8室のうちのひとつは、京都・西陣織の老舗 HOSOOが手がけるスイートルームへとリノベーションいたしました。
観光立国に向かう日本において、来訪者の一極集中が引き起こすオーバーツーリズムや均一化する観光地の問題があります。こうした課題に対する解として、まだ顕在化されていない地域の資産や価値を見出し、それを継承しながら、同時に広く知らしめることが重要だと私たちは考えます。沼津倶楽部は、より多くの方をお招きできるよう、より開かれた施設として生まれ変わります。歴史や文化を内包したこの場を、事業活動を通してサステナブルにそして次世代へと継承し、本質的な静岡の魅力、日本の文化を世界に向けて発信してまいります』。「沼津倶楽部継承プロジェクト」については、一見して何のための団体組織なのか、その本質が分からないと思いました。
これまでの調査とワークから実態が分かりにくい団体組織は、実は裏の松利権が絡む故に隠れ蓑として作られた団体の場合があります。例えば、2021年03月の記事《巨大な松利権ネットワークの様相を呈するNPO法人ひまわりの会》で調査とワークを行った「NPO法人ひまわりの会」がそうです。その時は、ネットで調べていく過程で香川敬がメッセージを添えている《ひまわりの会》を見つけました。メッセージの送り主の大勢の著名人に驚きます。直感的に松利権グループだと思いました。NPO法人ひまわりの会の公式サイトによると「全国自治体の母子保健課窓口、警察署交通課窓口、高速道路インフォメーションにてマタニティステッカーを配布。
出産・育児における医療情報、及びメッセージのメール配信。
」「これは、厚生労働省・警察庁・全国知事会・日本赤十字社・日本看護協会・日本医師会・日本産婦人科医会・日本助産師会・JICA・ユネスコ等の賛同と支援のもとに行われております」と書かれています。しかし、何をするためのものか、実態がつかめません。何故、マタニティや出産育児なのでしょうか。胎盤からの松成分の松利権に関係すると感じます。支配層は裏の金儲けのための松利権網としてこうした団体組織を作って真実を隠しているのです。具体的には、生の松やアドレノクロムなどの松製品を自分たちで嗜みながら販売して裏金をつくる一方で、支配層の要人たちを金で支配していくのです。
こうした支配層の松利権の隠れ蓑としての組織団体が各地に存在していると推察しています。支配層の支配力を強めて裏の金儲けが可能となる一石二鳥の手法です。「沼津倶楽部継承プロジェクト」の関係者や要人について調査とワークを進めました。ます、沼津倶楽部の歴史の原点となる「二代目三輪善兵衛(みわぜんべえ)」をピックアップしました。公式サイトには、『沼津倶楽部の歴史は、大阪のミツワ石鹸の二代目三輪善兵衛が、1913年に自身の別邸として数寄屋造りの「松岩亭」を建てたことに始まります』とあります。別邸「松岩亭」はその名前から「松を嗜む場所」と見ました。松果体収穫が密かに成されるための別邸としての建物をつくったのです。
二代目三輪善兵衛の経歴はwikiに記されています。『二代目三輪善兵衛(1871年-1939年)は、現・東京都中央区東日本橋出身の実業家である。[人物・来歴]1871年(明治4年)、東京市日本橋区橘町(現在の東京都中央区東日本橋)に初代三輪善兵衛の長男・竹次郎として生まれる。1884年(明治17年)、わずか13歳になるころに、家業の小間物問屋「丸見屋」を継いだ。1904年(明治37年)、伊東胡蝶園と販売総代理店として提携し、「御園白粉」を販売、化粧品業界へ進出した。1910年(明治43年)、「ミツワ石鹸」を発売した。1911年(明治44年)、「肝油ドロップ」の発売を開始する。
1915年(大正4年)、日本初の香料の研究所「ミツワ化学研究所」を発足した。1925年(大正14年)、伊東胡蝶園との総代理店契約を解消した。東京市淀橋区下落合350番地(現在の東京都新宿区下落合3-10)に邸宅を構えた。1939年(昭和14年)5月8日、死去した。満69歳没。二代目が発売した「ミツワ石鹸」は、現在でも発売される商品となった』。現在のミツワ石鹸は、東京都墨田区に本社があります。東京都墨田区は、昔から屠場があり支配層の松利権と深く関りがある場所です。墨田区-wikiには、『1909年(明治42年)から1937年(昭和12年)にかけて区内に屠畜場があり、木下川(現在の東墨田)地区を中心に、主として豚皮を扱う皮革産業が発展した。
豚脂などを扱う油脂産業や動物性油脂を原料とする石鹸産業も盛んで、大正時代には長瀬商店(花王の前身)、ライオン石鹸、資生堂、ミヨシ石鹸の4大石鹸メーカーが区内に立地した』と記されています。表では石鹸の製造販売会社ですが、その裏では、松や松製品の売買が成されていたと見ています。二代目三輪善兵衛の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「プレアデス」と伝えられました。やはり、真実を隠す闇(隠す闇)・工作の闇の叡智を持つプレアデスの宇宙人が憑いていた工作員だったようです。プレアデスの存在は自分たちの母星が分離されたことにより、分離によって真実を隠し闇にするエネルギーを有してきたのです。(つづく)