
北海道泊村の封じられた土地を開くために、泊村-wikiの「名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事」の項目に掲載されている幾つかの場所を調べてワークを行っていきました。wikiに載っている「茅沼(かやぬま)炭鉱跡」の場所をグーグルマップで探している過程で「ライマンの肉貯蔵庫」のポイントを見つけました。グーグルマップに掲載されている現地の画像からは、肉を貯蔵するための冷蔵庫替わりの洞穴のように見えました。ネットで「ライマンの肉貯蔵庫」についての情報を探すと、現地を訪れた方のブログ記事《エアぶろ ライマンの肉貯蔵庫》に行きつきました。ブログに掲載の「ライマンの肉貯蔵庫」案内板の画像には以下の説明書があります。
『炭鉱の地質調査のために、明治6(1873)年から8(1875)年にかけて来村したアメリカ人のベンジャミン.S.ライマンが食用の肉を蓄えておくためにほらせた、広さ3.3平米(一坪)の岩穴である。北向きの斜面で小川にも近く、夏でも涼しい地であり、近くには当時洋風の家が数軒立っていたという』。ブログ記事には以下の記述が写真と共にあります。『明治時代の穴。ここは泊村茅沼にある、ライマンの肉貯蔵庫です。ベンジャミン・スミス・ライマンは、日本各地の石炭・地質調査に関わった人物で、夕張や三笠の炭鉱も彼の調査で発展しました。ここ茅沼炭鉱にも明治6年に来ていたんですね。そしてこんな食肉用の貯蔵庫を作らせた…
当時はこの辺りでは肉が手に入りづらかったためかもしれませんね。新鮮な魚介を食べたら良かったのに。手掘りのようです。場所はすごーく分かりづらい場所にあります。泊村のパンフに載っているのですが、問い合わせて行くのが確実です』。直感的に「ライマンの肉貯蔵庫」は松の隠し場所兼貯蔵庫だと思いました。「ライマンの肉貯蔵庫」の東側の山の方には「茅沼炭鉱(山肌が露になっている箇所)」があったと思われます。炭鉱で採取した松の肉をライマンの肉貯蔵庫で保管していたのです。肉貯蔵庫を作ったライマンについては、wikiに経歴が記載されています。『ベンジャミン・スミス・ライマン(Benjamin
Smith Lyman・1835年-1920年)は、アメリカ合衆国の地質学者。
お雇い外国人として日本で最初の正式な地質学調査を実施、鉱山など日本の地下資源開発に極めて大きな貢献をした。日本名は来曼。[経歴]1835年にマサチューセッツ州のノーサンプトンで出生。父親は判事、母親は名家の娘。ハーバード大学を修了後、アメリカ鉄鉱協会の会長だった叔父の助手となり、鉱山調査に関わる。1859年にパリの鉱山学校、1861年にドイツのフライベルクにあるフライベルク鉱山学校(現在のフライベルク工科大学)に留学し、鉱山学を学んだ。ペンシルベニア州、インドなどの石油調査を終えたのち、1872年(明治5年)北海道庁のトーマス・アンチセルの後任として、開拓使次官黒田清隆との3年間契約で開拓使雇となる。
北海道開拓使の招待で来日、1876年(明治9年)まで北海道の地質調査に従事し、後に工部省の依頼で1876年から1879年の間、日本各地の石炭・石油・地質調査にあたった。1881年(明治14年)に帰国するまで山内徳三郎(山内堤雲の弟)、桑田知明(桑田立斎の子)をはじめ、稲垣徹之進、高橋譲三、賀田貞一、坂市太郎、島田純一、山際永吾、前田精明、西山正吾、安達仁蔵、前田方万など自身の日本人助手に地質学的思考力と実際の地質調査能力を教育し、日本の地質学に貢献した。 1876年(明治9年)5月に我が国初の統合地質図「北海道測量日本蝦夷地質要略之図」、1877年(明治10年)に「北海道地質総論」を作成。1878年(明治11年)には調査の主力を新潟県に集中しながら「北海道地質測量報文」を作成。
1879年(明治12年)まで関東から関西、九州まで調査した。帰国後はペンシルベニア州地質調査所次長に就任した。1895年に同所を退職し、1906年にフィリピンの鉱山調査に行く途上日本に立ち寄り、帰路に再訪日することを望んでいたが赤痢に悩まされ訪日できずに、ペンシルベニア州チェルトナムで1920年に死去』。「ライマンの肉貯蔵庫」の主であるベンジャミン.S.ライマンは米国の地質学者でお雇い外国人でした。ベンジャミン.S.ライマンの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松喰い」と伝えられました。やはりトカゲ人間として松喰い(松果体摂取)が成されていたようです。「ライマンの肉貯蔵庫」には、松取り(松果体収穫)の犠牲になった人たちの御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。
「いいです(OKです)」と伝えられました。「ライマンの肉貯蔵庫」の「肉」とは「松」であり、「茅沼炭鉱」から供給されたと推察しました。「茅沼炭鉱」は、支配層による松取り(松果体収穫)工作拠点だったと見ました。《亀の甲マークが松・金の目玉の支配を示唆する日立鉱山が前身の日立製作所》などの記事にありますが、炭鉱や金山・銀山などの鉱山は、支配層による労働者を犠牲にした松取り工作場所と分かっています。意図的に落盤などの事故を起こして遺体を利用してきたのです。「茅沼炭鉱」の情報は《泊村公式サイト》に記されています。『安政3年(1856年)、一漁夫によって茅沼の山中で「燃える石」石炭が発見された。
慶応3年(1867年)には、英国技師のガールを招き日本最初の鉄のレールを敷き、大量の石炭を貨車に載せて港まで出炭する方法が採られる等、いち早く外国の先進技術を取り入れ、石炭採掘を遂げた茅沼炭鉱は本道最古の炭鉱として、百有余年北海道開発の重要エネルギー資源として貢献し、泊村の発展のみならず、広く北海道の発展に大きな役割を果たしました。その後、その茅沼炭鉱も国のエネルギー政策によって昭和39年に閉山になり、108年の歴史を閉じました。地域開発と暖房炭確保のため引き続きできた泊炭鉱も昭和44年に閉山となり、泊村から文字どおり炭鉱の灯が消えてしまいました。現在の泊村の人口は約1,950人ですが、炭鉱で栄えた頃は約1万人が泊村に住んでいました。
その約半数が炭鉱のあった茅沼地区の人たちだったといわれています。茅沼地区の奧に、かつての炭鉱のズリ山が今も残り、当時の様子を伝えています』。「茅沼炭鉱」が稼働したことで、石炭を運ぶための日本最初の鉄道「茅沼炭鉱軌道(かやぬまたんこうきどう)」が生まれました。石炭や金・銀・銅などの鉱物の採掘の裏には支配層の松利権の闇が潜んでいます。石炭をカモフラージュにして松の運搬をしていたのです。それ故、泊村にあった「茅沼炭鉱」は、歴史的にも重要な場所でした。茅沼炭鉱跡に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです(OKです)と伝えられました。茅沼炭鉱軌道の情報はwikiにあります。
『茅沼炭鉱軌道は、かつて北海道後志支庁管内古宇郡泊村の茅沼炭鉱で運行されていた鉱山鉄道である。後に索道を経由する日本国有鉄道(国鉄)岩内線岩内駅までの茅沼炭鉱専用鉄道が運行されたが、敷設ルートは全く異なる。茅沼炭鉱軌道は日本で最初の鉄道といわれている。しかしながら鉄道=旅客鉄道という前提があるため、人を乗せることを主目的としない茅沼炭鉱軌道は日本初の鉄道とみなされないのが一般的で、1872年に開通した新橋横浜間が日本最初の鉄道とされている』。茅沼炭鉱軌道ーwikiに出てくるイギリス人技師エラスムス・ガウワーとイギリス外交官アーネスト・サトウの2人の人物に着目しました。
『イギリス人技師エラスムス・ガウワーが、効率化のために鉄道(トロッコ)の建設を提案する。・・1868年9月に現地を訪れたイギリス外交官アーネスト・サトウは、海岸から渓谷まで2マイルに枕木とその上の木製レールが敷かれていたと書き残している』。エラスムス・ヘンリー・モーリシャス・ガウワー(Erasmus Henry Mauritius Gower・1830年-1903年)は英国の鉱山技師で、幕末・明治期のお雇い外国人です。弟は長崎および箱館の領事を務めたエイベル・ガウワーです。アーネスト・メイソン・サトウ(Ernest Mason Satow・1843年-1929年)は、イギリスの外交官です。イギリス公使館の通訳、駐日公使、駐清公使を務め、薩摩藩や長州藩、幕府や新政府との交渉に尽力しました。
また、政務の傍ら、日本の歴史や文化、思想などに関心を持ち、多くの著書を執筆して、ヨーロッパにおける日本学の基礎を築きました。バジル・ホール・チェンバレン、ウィリアム・ジョージ・アストンとともに明治期の著名な日本研究家の一人で、日本滞在は1862年から1883年と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると計25年間になります。石橋政方とともに「英和口語辞典」を編纂するなど、日本の英語教育と外国人の日本語教育にも多大な貢献をしました。日本名は佐藤愛之助で、英国国教会(聖公会)信徒でした。エラスムス・ガウワー、アーネスト・サトウの御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろしました。
「工作員」「工作員」と伝えられました。個人的には、いずれも支配層・八咫烏の工作員の役割だったと見ています。北海道泊村に、支配層の松利権工作拠点である原子力発電所が置かれたのは、北海道最古の炭鉱で松工作拠点となる「茅沼炭鉱」が生まれたからです。北海道電力の泊原子力発電所の伏線が「茅沼炭鉱」でした。支配層の松利権という裏の金儲けを継続するための大規模な工作拠点が必要だったのです。松工作拠点である原子力発電所が置かれた場所は、本来は大事な光の地です。支配層の松工作の闇の仕組が終焉となり、泊村の地が本来の光を取り戻すことを願っています。(おわり)