
エプスタイン文書問題でクローズアップされた伊藤穣一が学長を務める千葉工場大学について調べていくと、千葉工業大学の初代学長・小西重直(京都帝国大学総長)が「会津会」の会員だったことを知りました。経験的に、会津会は支配層の松利権組織だと感じました。故に、今回、「会津会」について本格的に調査とワークを行っていきました。千葉工業大学の初代学長・小西重直などの詳細については、《支配層の松利権団体の会津会会員だった京都帝国大学総長を歴任した千葉工業大学の初代学長・小西重直》に記述しています。「会津会」の情報はwikiに記載されています。
『会津会は1912年(明治45年)4月に設立された、会津地方出身者及び縁故のある個人で構成される団体である。松平保男(まつだいらもりお)が総裁、兄の健雄、英夫、恒雄が副総裁に就任し、松平子爵邸に本部を設けた。会の目的は同邸での会合、会報の発行などを行い、会員の親睦を図ることであった。松平の死後は恒雄が総裁に就任した。
戦前の主な会員は次の通りである。1. 〈官界〉:池上四郎、石塚英蔵、大久保偵次、大島破竹郎、小原直、加藤祐三郎、河原田稼吉、神田重雄、日下巌(大審院判事)、日下義雄、黒河内四郎、小山知一、小松緑、斎藤良衛
佐藤正俊、辰野宗義、高野源進、馬場愿治、新妻駒五郎、西川鉄次郎、丹羽七郎、林権助、平田紀一、三淵忠彦、森俊六郎、村井八郎、柳澤健、山川建 2. 〈政界〉:(衆議院議員) 荒木武行、石川淳、片桐酉次郎、柴四朗、中野寅吉、八田宗吉、林平馬、廣澤辨二、町野武馬、丸山芳介、渡部鼎 3. 〈財界〉:赤羽克己、大島清(西武鉄道社長)、小野木源次郎、加藤寛六郎、川井源八(三菱電機社長)、小日山直登、笹原辰太郎、佐藤勇太郎、下坂藤太郎、白井新太郎、鈴木寅彦、中野友禮、橋爪捨三郎(鐘紡副社長)、前田二平(山叶商会(新光証券の前身)社長)、松江春次
4. 〈学界〉:山川健次郎(帝大総長)、小西重直、新城新蔵(帝大教授) 高嶺俊夫、野口尚一(工学院大学初代学長)、山川洵、斎藤常三郎、深田康算、松本信一、君島八郎、植村恒三郎、本名文任(学校長) 相田泰三(本荘高等女学校)、井深梶之助、大竹多氣、太田悌蔵(法政二高)、加藤利吉(仙台育英)、佐藤義長、長岡寛統(六高)、山川黙、結城朝恭(名古屋高工) 5. 〈その他〉:梶原景清(梶原平馬と山川二葉の長男、海軍軍医大佐)、春日部たすく、新城和一、関場不二彦、中田章、丹羽五郎、野口英世、蓮沼門三、長谷川太一郎、花見朔巳、平石弁蔵、本多修郎、松田甲、山口喜一、町野主水、高木盛之輔、飯沼貞吉など、会員の大部分は男性であった。
しかし、看護婦会長を務める女性なども加入している。下記の稚松会会員は概ね双方に属していた。戦後は総裁から会長に制度を改め、会長には飯沼一省、星野喜代治、柏村毅(東急専務)、鈴木勝、川島廣守が就任している。松平勇雄、松平一郎は名誉会員、井深大、大平善梧は顧問であった。なお前掲の松平の肖像は会報第1号の巻頭写真である』。上記の会津会の会員の中で、私が知っている人物は、会津山川家の東京大学総長の山川健次郎、千円紙幣の肖像画になった医師の野口英世、ソニーの創業者の井深大です。会津会は、官僚・政治家・実業家・学者などの支配層の集団組織となっています。
表向きは、会津地方出身者及び縁故のある個人で構成される団体で、会の目的は同邸での会合、会報の発行などを行い、会員の親睦を図ることでした。しかし、裏では、生の松や松製品の摂取と販売を通して、金で支配する構図だと捉えています。こうした支配層の松利権組織は、表と裏を使い分けています。それは、宗教の源流となる裏に松利権を有するキリスト教に由来していると感じます。裏の闇の真実を隠して一般大衆に光だと見せかけるのです。いわゆる「隠された支配の闇」です。現実社会の政治・行政・経済・教育・医療などの殆どの分野では、こうした裏に支配層の松利権の闇と金の支配の闇が隠されています。
過去のヒプノセラピーでは、支配層の松利権組織「法華会」のことが伝えられています。『裏で松製品のアドレノクロムを販売していた。製造場所は地下。富士山の近くの端。静岡県側の富士山の麓には、陸上自衛隊の東富士演習場、トヨタのウーブン・シティがある。3箇所にハンセン病療養所もあった。アドレノクロムの売り先は日本も海外もある。売上金が入るのは天皇陛下。自分の仕事は、支配層の要人をお金で支配していた』。《松利権の闇が浮かぶ千葉工大の学長・伊藤穣一等が発起人となり進めている「沼津倶楽部継承プロジェクト」》で言及している伊藤穣一等が発起人となっている「沼津倶楽部継承プロジェクト」も同じです。
「沼津倶楽部継承プロジェクト」は、支配層の松利権組織だと見ています。また、《巨大な松利権ネットワークの様相を呈するNPO法人ひまわりの会》で追求した「NPO法人ひまわりの会」も支配層の松利権組織だと理解しています。支配層の松利権集団は、エプスタイン事件・問題と重なります。多くの権力者のエゴ・欲を満たして金を得ることで、支配層の結束を強めて、上層部が思い通りに動かすことが可能となります。こうした松利権組織・集団が日本を含めて世界中に幾つもつくられて、深い暗闇の世界が形成されたと感じます。「会津会」の初代総裁と現会長などの要人の調査とワークを進めました。
会津会の初代総裁は「松平保男」です。松平保男の経歴はwikiに記載されています。『松平保男(1878年-1944年)は、会津松平家の12代目当主で雍仁親王妃勢津子の養父。日本海軍の軍人として日本海海戦に参戦し、最終階級は海軍少将。また貴族院議員を務めた政治家でもある。会津会総裁、稚松会総裁。位階・勲等・功級・爵位は、正三位勲二等功五級子爵。霊号は海誠霊神。[生涯]〈経歴〉旧会津藩主・松平容保の七男。生母は容保の側室・佐久、妻は駿河国沼津藩主・水野忠敬の娘・水野進子ゆきこ。1900年(明治33年)12月、海軍兵学校(28期)を卒業。
1902年(明治35年)1月、海軍少尉に任官し横須賀水雷団第1水雷艇隊付となり、日露戦争に出征。1905年(明治38年)1月、海軍大尉に昇進し「鎮遠」分隊長として日本海海戦に参戦した。1910年(明治43年)6月、長兄の松平容大の死去に伴い、子女がいなかった容大の子爵位を継承。兵科将校としての専門は砲術で砲術長や海軍砲術学校教官などを務め、1910年(明治43年)12月少佐、1916年(大正5年)12月中佐へ進級。戦艦の副長職にあった際、持病であった耳疾が悪化し、一時待命となり治療に専念。軽快後海軍省出仕として復帰した。1920年(大正9年)12月大佐に進級。
戦艦「伊吹」艦長、兼「摂津」艦長、呉鎮守府付(簡閲点呼執行官)、横須賀海兵団長を歴任。1925年(大正14年)12月1日、海軍少将に昇進し、同月15日、予備役に編入された。1932年(昭和7年)7月10日から死去まで貴族院子爵議員となり、研究会に所属した』。会津会の初代総裁・松平保男の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「裏部隊」と伝えらえました。支配層の裏部隊を率いていたようです。松平保男の父親は、旧会津藩主の松平容保です。京都守護職の時に支配層の現場のサンカである裏の松取り部隊を束ねていました。松平保男は、父親の近代戦争の松工作の実働部隊長の役割を引き継いでいたと感じます。(つづく)