
公益財団法人 三菱財団の財団概要は公式サイトに記載されています。『[財団概要]〈財団設立〉三菱の発祥は、1870年(明治3年)に遡ります。この時、創立者岩崎弥太郎が、海運業の経営に着手しました。三菱企業は、近代日本の曙と共に生まれ、それ以来日本経済と運命を共にして、幾多の苦難を経ながらも今日に至ります。
三菱グループは、創業以来の所期奉公(公益奉公)を以って基本理念としてきました。
創業百周年の記念日を迎えた年に、この精神を生かした最も有意義な事業をもって社会に貢献するため、関係各社と財団法人三菱財団を設立しました。なお、2010年11月より公益財団法人となっております。
〈活動目的〉学術研究、社会福祉及び文化保存修復に関する事業等に対して援助を行なっています。それにより、日本社会の学術、教育、文化並びに福祉の向上に寄与することを目的としています。〈概要(2025年6月25日現在)〉設立:昭和44年9月11日 役員定数:理事 10~20名(現状15名、内 理事長・常務理事 各1名) 監事4名以下(現状4名) 評議員 10~25名(現状18名) 寄付金拠出会社:三菱関係40社 財産現在額:357億円(三菱各社等より拠出累計289億円) 年間財産運用収入:839百万円』。三菱財団の役員名簿は公式サイトに掲載されています。三菱財団の理事長・三毛兼承(非常勤・㈱三菱UFJフィナンシャル・グループ取締役 執行役会長)、常務理事・七條博明(常勤)の2人をワーク対象に選びました。
三毛兼承の経歴はwikiに記されています。『三毛兼承(みけ かねつぐ・1956年-)は、東京都出身の実業家。株式会社三菱UFJ銀行 特別顧問、一般社団法人不動産証券化協会副会長。学位は経済学士(慶應義塾大学・1979年)、経営学修士(ペンシルベニア大学・1987年)。[経歴]慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾高等学校を経て、慶應義塾大学経済学部を卒業。大学卒業後の1979年に三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)に入行。国内4拠点、海外2拠点の営業現場を経験した後、総合企画室室長やシステム統合推進部部長を担う。2009年に常務執行役員、2013年に専務執行役員、2016年に代表取締役副頭取に就任。この間、旧東京三菱銀行と旧UFJ銀行のシステム統合やアユタヤ銀行買収後における統合作業を担務する。
2017年に三菱UFJフィナンシャル・グループ取締役代表執行役副会長、三菱東京UFJ銀行(現・三菱UFJ銀行)代表取締役頭取に就任。2019年に三菱UFJフィナンシャル・グループ取締役代表執行役社長兼CEOに就任。2020年に取締役代表執行役副会長に就任。2021年に取締役執行役会長に就任。2026年4月株式会社三菱UFJ銀行 特別顧問』。七條博明の経歴は《JFCVIEWS》に記されています。『神戸大学経営学部を卒業後、1986年に株式会社三菱銀⾏(現・三菱UFJ銀⾏)に入⾏し、プライベートバンキング、リテール業等を歴任。2015年2⽉に三菱総研DCS株式会社の常務執行役員に就任。2023年7⽉に財団三菱財団常理事に就任し、現在に至る』。
公益財団法人 三菱財団の理事長・三毛兼承(非常勤・㈱三菱UFJフィナンシャル・グループ取締役 執行役会長)、常務理事・七條博明(常勤)、本部所在地(東京都千代田区丸の内2丁目3-1 三菱商事ビルディング 21F)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「会津松平家の系統」「同じく会津松平家の系統」「いいです(OKです)」と伝えられました。やはり三菱財団の理事長と常務理事は、会津会に繋がる会津松平家の系統の工作員の役割を担っているようです。支配層の松利権団体と見る「会津会」の総裁を勤めた松平保男(まつだいらもりお)は、もう1つの組織団体「稚松会」の総裁にも就いていました。
「稚松会」は、会津藩出身の軍関係者などが会員ですが、「会津会」と同じく支配層の松利権団体と推察します。「稚松会」は、1945年(昭和20年)に解散しています。「稚松会」の名前は、おさない子どもの松の会とも読めます。「稚松会」の情報は、松平保男-wikiに記載されています。『稚松会は1912年(明治45年)3月に設立され1926年(大正15年)に認可を受けた財団法人である。会名の"稚松"は会津藩の本城があった"若松"を意味し、幼い松が大木となることを寓意して、後進の成長を願ったのである。前身は山川浩が組織した「軍人団話会」や渡部鼎が組織した「同志会」で、総裁には会津松平家当主を戴く規定になっており、本部を東京の松平子爵邸に、支部を若松に設けた。
会員は任意の旧会津藩領出身者及び旧会津藩に由緒のある陸海軍高等武官で、軍学校に教官として在籍するものが委員を務めていた。会員は月給の100分の1(時期によって異動あり)を納め親睦を図るほか、会津中学、喜多方中学在校生などから軍学校への志願者を勧誘し、受験対策を行うなど後進の育成にあたった。またこの学力増進策によって、旧制高校などへ進学するものもいた。
設立時の正規会員は190余名である。軍学校への志願者が「ほぼ皆無」といわれたほど激減していた時期もあったが、1937年(昭和12年)12月時点で軍学校に在籍する将校生徒は47名である。内訳は、出身中学が会津中学31名、喜多方中学6名。
その他は福島県外の中学出身で、在籍校は東京陸軍予科士官学校25名、陸軍士官学校本科15名、陸軍経理学校2名、海軍兵学校6名であった。1945年(昭和20年)の解散時における会員数は「約700名に達せり」である。会員には旧斗南藩領出身の者もいた。日本海海戦で戦艦砲術長を務めた和田幸次郎や、第一次世界大戦で第一南遣枝隊機関長を務めた大沼龍太郎などである。ただし、直接の出身地を問わず、入会資格を有する人物のすべてが入会していたわけではない。太平洋戦争期であれば、師団長、軍令部課長、警備隊司令の役職にあった中将、少将、大佐は非入会であり、この三名は会津会にも加入していない。
ただしその兄弟は会津会や稚松会の会員である事例もあった。なお各界で立身した人物たちを中心に、経済的な面から会を支える賛助員の制度が設けられていた。賛助員には上記の池上、石塚、日下(義)、鈴木、下坂、辰野、橋爪、前田、松江、森のほか、神戸で海運業を営んだ佐藤勇太郎、会津会で主要な役割を担った澤全雄(大日本製糖技師長)、 鳥羽・伏見の戦いで討死した大砲隊頭林権助安定、白井五郎太夫の直系子孫である林権助、白井新太郎や、避戦派の藩士であった河原善左衛門の息子である河原勝治(日本郵船船長)、藩勘定頭であった赤羽治平の息子である赤羽克己もいる。山田英夫は会員かつ賛助員であった。
財団の残余財産は主として南満州鉄道の社債で、会津中学、喜多方中学の後援会に移管された』。稚松会の賛助員の仕事として神戸の海運業、大日本製糖、日本郵船と財団の残余財産が社債となる南満州鉄道は、いずれも支配層の松利権が絡んでいます。「稚松会」の会員はwikiに記載されていますが、ワーク対象として「稚松会」設立時の会長に就いた「出羽重遠(でわしげとお)」を選びました。稚松会の設立時の会長・出羽重遠の経歴はwikiに記されています。『出羽重遠(1856年-1930年)は、陸奥国会津郡若松城下(現・福島県会津若松市)出身の海軍軍人、華族。海軍大将正二位勲一等功二級男爵。[経歴]陸奥国の会津若松城下に、会津藩士である出羽佐太郎重信を父として誕生。幼名は房吉。
戊辰戦争では白虎隊に属して戦った。戦後、父が会津松平家御用掛として上京したのに伴われ、秋月悌次郎らから教育を受けている。明治11年(1878年)8月16日、海軍兵学寮(5期)を卒業。
防護巡洋艦浪速の回航委員として英国出張を命ぜられ、航海長として帰国。防護巡洋艦高千穂の分隊長、巡洋艦高雄の副長、砲艦赤城の艦長など現場経験を重ねるとともに、海軍省第一局第一課長(後の軍務局第一課長)、大臣官房人事課長といった軍政関係に配置された。日清戦争を西海艦隊参謀長として迎え、明治27年(1894年)12月27日、大佐に昇進すると同時に連合艦隊参謀長へ異動。連合艦隊司令長官である伊東祐亨中将の補佐にあたる。日清戦争後は再び軍務局第一課長、軍務局軍事課長を務める。
日露戦争後、第二艦隊および佐世保鎮守府の各司令長官・教育本部長を務め、第一艦隊司令長官在任中の明治45年(1912年)7月9日大将へ昇進した。それまで有栖川宮威仁親王以外の13人の海軍大将は全て旧薩摩藩出身者であり、加えて賊軍といわれた会津藩出身であったことから当時の新聞報道でも大きく扱われた。その後軍事参議官在任中にシーメンス事件査問委員長を務めている』。海軍大将の殆ど全てが旧薩摩藩出身者であった中で、会津藩出身の出羽重遠が海軍大将に引き上げられたことは、余程の重要な裏の役割を担っていたからだと感じます。稚松会の設立時の会長・出羽重遠の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。(つづく)