Nagayodam-MtKotonoo0903


一般社団法人長崎国際観光コンベンション協会の会長・村木昭一郎が代表取締役社長を務める「野母商船株式会社 」と長崎商工会議所の会頭・森拓二郎が会長を務める「株式会社十八親和銀行」を追っていくことにしました。野母商船㈱は海運業で、㈱十八親和銀行は地方銀行であり、支配層に松システムおいて、松の運搬と裏金のカモフラージュとしてそれぞれが重要な役割を担っています。野母商船㈱の情報はwikiに記載されています。『野母商船株式会社は、長崎県長崎市に本社を置く海運会社。野母商船グループの中核企業である。

 

社名は前身の村木汽船部が長崎・大波止と西彼杵郡野母村(現在の長崎市野母崎)間の旅客航路を開設していた。このことに由来するが、現在は野母港への路線は保有していない。[沿革]・1910(明治43)927-片岡茂八が長崎交通船株式会社を設立し、大波止〜旭町・飽の浦間の定期旅客運航を開始。・1910(明治43)125-村木清三郎が「村木汽船部」の名称で海運事業を開始。・1913(大正2)3-長崎交通船、航路を小榊村と福田村へ延長。・1916(大正5)-村木汽船部、長崎〜野母間の旅客航路を開設。長崎交通船、式見・三重航路を開設。

 

1925(大正14)4-長崎交通船、長崎近海汽船株式会社を設立し、三重・式見航路を分離。・1929(昭和4)1220-村木汽船部、株式会社化し社名を「野母商船」とする。・1930(昭和5)-長崎交通船、神楽島汽船を吸収合併・・』。野母商船㈱は、県内の離島を結ぶ3つの航路でフェリーや高速船を運航しています。野母商船㈱の創業者は「村木清三郎」です。公式サイトには『大正5(1916)年初代社長・村木清三郎氏により野母電燈株式会社として創業』と記されています。野母商船㈱の創業者・村木清三郎は、最初に電燈株式会社を設立しています。

 

南房総市千倉町に電力会社を設立した電気王・才賀藤吉と日本初の電気機器製造会社の経営者・三吉正一》などの記事にありますが、電燈会社が松利権の隠れ蓑になります。過去の調査から明治・大正時代の支配層の松利権が潜む表の会社の多くが、電力会社(旧・電燈会社)を設立することから始まっています。村木清三郎の経歴・プロフィールに関するネット情報は見当たりませんでした。野母商船㈱の創業者・村木清三郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。個人的には、支配層八咫烏のサンカ工作員の役割だったと見ています。

 

Sogi.jp》から野母商船㈱の代表取締役社長・村木昭一郎の実父が野母商船グループ元会長の村木文郎(むらきふみろう・故人)と分かります。野母商船グループ元会長・村木文郎の経歴はwikiに記されています。『村木文郎(1933-2019)は、長崎県出身の実業家。野母商船グループ会長。旅客船業界に係る各種団体の会長・委員等を務め、海運事業振興に努めた。[経歴]祖父は野母商船創業者の村木清三郎、父は日本旅客船協会の設立に関わり、同協会会長を務めた村木信一郎。長崎県立長崎東高等学校を経て、1956年一橋大学商学部卒業後、野母商船に入社。1964年専務を経て、1991年社長。

 

2006年から2011年まで日本旅客船協会会長を務め、高速道路無料化に反対するなど業界の意見を発信した。また、離島を多く抱える長崎県における海上交通の振興にも努め、島民らを対象として運賃を割引する制度を打ち出すなどした。このほか長崎文化放送取締役、長崎県選挙管理委員会委員長(2003年~2007)、長崎県美術館の運営を行う長崎ミュージアム振興財団理事長などを歴任した。2011年に旭日中綬章を受章。現在は野母商船グループ会長を務める。叙正五位』。野母商船グループ元会長の村木文郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松喰い」と伝えられました。

 

松果体収穫を成す支配層の工作員の役割だったようです。野母商船㈱の本社所在地(長崎県長崎市元船町17-3)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです(OKです)」と伝えられました。十八親和銀行は、実質的には、ふくおかフィナンシャルグループと十八銀行が経営統合したものです。具体的には、2020(令和2)101日ふくおかフィナンシャルグループ傘下の親和銀行が十八銀行を吸収合併し、存続行となる親和銀行が十八親和銀行に商号変更しました。長崎商工会議所の会頭・森拓二郎は、十八銀行最後の頭取でしたので、十八銀行について調査とワークを進めました。十八銀行の情報はwikiに記されています。

 

『株式会社十八銀行は、かつて存在した長崎県長崎市銅座町に本店を置いていた地方銀行。[概要]長崎県(親和銀行と共同)・長崎市の指定金融機関であった。ネット支店であるデジタル出島支店を展開するほか、入金照合サービスで使用する被振込専用支店は長崎ゆかりの人物であるシーボルトの名を冠して「シーボルト支店」としていた。数字の銀行名(旧国立銀行)で、唯一数字の部分の英称が英語読み(JuhachiではなくEighteenth)の銀行であった。コーポレートスローガンは「大切にしたい 心と心」。2019年に金融持株会社・ふくおかフィナンシャルグループの完全子会社となった。

 

その後、2020年に親和銀行と統合し十八親和銀行となった(親和銀行が存続行のため、十八銀行は解散)。[沿革]〈前史〉・1870(明治3)1-産物会所の貸付金整理業の協力社が設立される。・1872(明治5)12-永見伝三郎と松田源五郎により合資会社「永見松田商社」を開業。119-「立誠会社」と改称。・1874(明治7)108 - 松田源五郎、上海・香港へ渡る。第一国立銀行員として銀貨流通状況を視察。・1875(明治8)915-立誠会社を株式組織とする。〈正史〉・1877(明治10)516-国立銀行願書を提出。92-国立銀行条例に基づき、「第十八国立銀行」として設立。資本金は16万円。

 

初代頭取には永見伝三郎、支配人には松田源五郎が就任。役職員は頭取以下21名。松田源五郎の提案により、立誠会社を解散して国立銀行を東濱町326番地に営業所で開業の運びとなった。1220-開業』。十八銀行の設立者/初代頭取は「永見伝三郎(ながみでんさぶろう)」です。経歴は《コトバンク》にあります。『永見伝三郎 1831-1899 幕末-明治時代の貿易商,銀行家。天保(てんぽう)2年生まれ。貿易,大名貸で産をなした永見屋に生まれる。明治5年松田源五郎と永見松田商社(のち立誠社)を設立。国立銀行条例の改正で,10年第十八国立銀行にあらため,初代頭取となった。明治32827日死去。69歳。肥前長崎出身。名は英昌』。

 

十八銀行の設立者/支配人は「松田源五郎(まつだげんごろう)」です。松田源五郎の経歴はwikiに記されています。『松田源五郎(1840-1901)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、長崎市会議長。[経歴]肥前国彼杵郡、のちの長崎県長崎区(現長崎市)酒屋町の鶴野家で生まれ、貿易業の叔父・松田勝五郎の養子となる。私塾で学び、家業を継承した。1872(明治5)永見伝三郎と共同で金融業・永見松田商会(立誠会社に改称)を設立し、のちに十八銀行に発展させ頭取に就任。その他、小野組長崎支店支配人、東京築地活版製造所取締役、長崎商法会議所会頭、九州鉄道取締役、長崎電灯(のち長崎電気瓦斯)取締役、長崎製氷取締役に就任。

 

また、九州倉庫取締役、香港ローラ麦粉取締役、長崎貯蓄銀行頭取、石川島造船所(IHI)監査役、東洋浚渫社長などを務めた。政界では、長崎県会議員、長崎区連合町会議員、同議長、長崎市会議員、同議長を務めた。1892(明治25)2月、第2回衆議院議員総選挙(長崎県第1区、中央交渉会)で当選し、議員倶楽部に所属して衆議院議員に1期在任した。1916(大正5)1228日、従五位を追贈された』。十八銀行の設立者兼初代頭取・永見伝三郎、設立者兼支配人・松田源五郎の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「八咫烏」「工作員」と伝えられました。個人的には、十八銀行の設立者2人は支配層八咫烏の工作員の役割を担っていたと感じます。(つづく)