
北海道岩内町の歴史をネットで調べていくと、2025/07/19の「フォートラベル」の有用記事《岩内:鰊漁だけでない様々なエッセンスを感じられる特異な街》を見つけました。引用記事には以下の内容が記されています。『〈岩内町郷土館にて〉 岩内は松前藩の領地として、イワナイ場所が開かれることで和人の開発が始まります。米がとれないので、海産物が採れる海岸線を区切って家臣に知行地として与え、アイヌと交易した利益を財源としました。武士の商法は、やがて行き詰まり、藩の出入商人に経営を委託する場所請負制度が18世紀以降導入されます。彼らは城下に住んで、漁期になると現地へ支配人/通詞/帳役/番人を派遣して、アイヌと交易しました。
交易所を運上屋と言います。あるいはアイヌを雇用して、漁業を営みました。イワナイ場所は家老蠣崎佐士の知行地でしたが、1781年に藩の直轄地になります。記録に残る最古の請負人は岡田弥三右衛門(1751-65)で、彼は番人を通年で定住させたので、この年を岩内のはじまりとします。明治に区分された郡は、場所の境界線をそのまま引き継ぎました〈佐藤仁左衛門〉親子二代で場所を請け負い、二代目は明治政府が制度を廃止するまで請け負います。インフラ整備やアイヌも対象とした福祉活動も行いました。運上屋とアイヌ家屋しかなかった状態から1853年には203戸1904名が暮らす蝦夷地屈指の都会としました。
岩内を中心に雷電や稲穂峠まで私費で道路を通しました。函館~札幌を結ぶ国道5号線の区間も多く含まれるのが興味深いです。明治2年に北海道は開拓使の管轄下となり、岩内郡を含む86の郡が誕生します。岩内は、立派な港と茅沼炭鉱に近いこともあって開拓使の出先機関が置かれます。岩内郡と隣の古宇郡を統括する郡役所も設置されます。旧会津藩家老の簗瀬真精は開拓使に出仕し、岩内に赴任して民生/教育の向上や漁業振興に貢献、退官後も岩内に留まって郵便局長等を歴任しました。当時の古宇郡には郡役場も各村の戸長役場もなく、岩内の庁舎で行政業務が代行されました。
余談ですが、朝鮮の著名な独立運動家金玉均が日本へ亡命した際に犬養毅や福沢諭吉らが支援したことは有名です。岩内の簗瀬家にも暫く滞在し、元会津藩士という経歴もあって手厚くもてなしたそうです。お礼に岩内では未達のカレーライスのレシピを教わったそうです。〈1872(M5)年の岩内の様子〉北海道の多くの場所が明治30年代に入植が始まったのとは対照的に、多くの民家と商家が立ち並んでいます。それだけの人数を養えるだけの産業があったことの証です。〈1875(M8)年の札幌の様子〉西方向を向いています。岩内通りが南西部に確認できます。道内でも名の通った街である証です。
明治2年に建設の始まる人工都市札幌の人口の少なさと、岩内の繁栄ぶりを比べると興味深いです。1869(M2)年に場所制度が廃止され、1877年には漁業権も開放されると、誰もが自由参入する機会が訪れます。特にニシン漁を仕切ること(親方業)が大きな収入をもたらす花形産業で、岩内では漁場を10か所所有した浜喜三郎/6か所所有した橋本清吉らが現れます。〈潤沢なニシンマネー〉ニシン場の経営は莫大な利益をもたらし、親方の多くは潤沢な資金で副業を営み、事業を多角化します。その多くは住民の生活に関わるもので、多くの益をもたらします。財力を地方自治や社会貢献へ直接用いる親方もいました。
二代目梅沢市太郎は、北海道一級町村制施行に伴い初代町長を務め、築港整備で負債を負うと第6代町長を務め、財政改革を行います。初代大井昌次郎は、農業にも力を入れて米等の自給自足を目指し、原野の開墾に努めます。二代目大井昌次郎は1940年に農地解放を行い、37名の自作農が誕生します。一人当たりの耕地は2haに及び、現在の日本平均を大きく上回ります。夫人は長年教鞭を取ることで、女子教育に貢献します。〈鰊の漁法〉江戸後期から定置網を使用して改良が続けられましたが、明治中頃の角網漁で完成に至ります。毎年同じ場所で産卵することと、障害物に当たると逆走する習性を利用しています。進路を妨げる手網に沿って反転した鰊の群れは、その先の身網に誘導されて一網打尽に収穫します。
このような根こそぎ漁法で、岩内では一か所当たり一億円ほどの利益を生み出しました。〈岩内繁栄の根源だった鰊漁〉岩内の最大の特徴は鰊番屋がないことと、出稼ぎ労働者が少ないことです。輸送/保存技術が発達した現在の沿岸漁業のように、網を降ろして獲物を取って、帰港と同時に市場へ卸して終了ではありませんでした。インフラを含めた入念な準備と、複雑な製品加工を親方(網元)を筆頭とする100名ほどの組織で行いました』。岩内町が深い闇に覆われたのは、アイヌと交易をしていた松前藩や御殿を建てる程の大金を得ることが出来たニシン漁によるニシンマネーだと感じます。表向きは札幌よりも経済的に発展していた岩内の地です。
しかし、金とエゴの大きな闇が岩内町を深い闇の地に変えてきたことが分かります。これらの裏に隠されてきたものが、アイヌ民族を犠牲にした支配層の松利権の裏金の闇だと見ています。引用記事の中で私が着目した人物が旧会津藩家老の「簗瀬真精(1828年-1921年)」です。旧会津藩家老の簗瀬真精は開拓使に出仕し、岩内に赴任して民生/教育の向上や漁業振興に貢献、退官後も岩内に留まって郵便局長等を歴任しました。簗瀬真精は、犬養毅や福沢諭吉らが支援した朝鮮の著名な独立運動家・金玉均に深く関係していたことから朝鮮人を工作員にして利用していたと見ています。やはり岩内の地は、支配層八咫烏亀派に重きを置く同和派の重要拠点だったことが窺えます。
岩内の地が支配層の重要拠点に変えた人物となる簗瀬真精のポイントは、会津藩の家老を務めていたことです。《戊辰戦争で会津藩が成した裏の松工作を引継ぐ櫻井よしこが名誉顧問に就任する「新島八重顕彰会」》にありますが、会津藩は、支配層の裏の仕事を担う松取り部隊の精鋭部隊だったと見ています。会津藩は、幕末維新の時代に、戊辰戦争などの戦や内乱の裏の工作部隊でした。戦(いくさ)や内乱を意図的に起こして、遺体や処理の現場仕事を成すサンカの役割を担っていました。会津藩は、一般庶民に分からないように裏の仕事をする松工作の闇の叡智と技術を持っていたと感じます。
同時に、松工作を遂行するための重くて大きな闇のエネルギーも岩内の地に持ち込んだと見ています。それ故、会津藩の元家老の簗瀬真精が北海道で真っ先に開拓されてインフラが整えられた岩内の地に赴任したのです。簗瀬真精の経歴・プロフィールは、《元会津藩士の書翰を翻刻出版》に記されています。『そもそも簗瀬真精とは誰か。1838年(天保9)に岩代国(今の福島県西部)に生まれた代々、会津藩主の松平肥後守に仕える家臣である。会津藩といえば、戊辰戦争で旧幕府軍の中心となったことで知られるが、真精もその一員として戦い、敗北後は東京で謹慎生活を送っている。開拓事業に従事する者は罪を許すという内命を受けた。
しかし、会津藩士が多数送られた斗南(青森県)には行かず、蝦夷地(北海道)を選んだ。1869年(明治2)に小樽郡に移住し、一時、困窮生活を送ったが、1870年(明治3)に開拓使に登用され、厚田郡に詰めることとなった。・・真精はのちに岩内古宇郡長を務め、1921年(大正10)に83歳で亡くなっている。和洋折衷の隠居邸は現在も岩内に残っている。1906年(明治39)に建てられた岩内最古の建物だという。子孫も町内にいらっしゃるとのことだ』。簗瀬真精(旧会津藩家老・1828年-1921年)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。個人的には、会津藩の家老だった簗瀬真精は、支配層八咫烏のサンカを束ねる工作員の役割だったと見ています。(つづく)