
北海道岩内町は、明治時代の初めには、現在の北海道の道庁所在地の札幌より経済的に発展していました。アイヌと交易をしていた松前藩や御殿を建てる程の大金を得ることが出来たニシン漁によるニシンマネーが主だったと感じます。金とエゴの大きな闇が岩内町を深い闇の地に変えてきたことが分かります。岩内町の表の経済的発展の基盤は、裏の松取り(松果体収穫)による金儲けである松利権によるものです。北海道最古の茅沼炭鉱(1856年-1964年)が稼働し、表向きは石炭を運搬するための実質的に日本最初の鉄道である茅沼炭鉱軌道(1869年-1962年)が開通したからです。岩内町は、日本のどこよりも早く支配層の松利権の栄華が現実化していたのです。
松前藩のアイヌとの交易、ニシン漁による大金と共に、岩内町は、北前船の寄港地であるゆえに、経済的な繁栄が成されました。《北前船の寄港地・北海道江差町の闇の露呈を意味する江差高等看護学院のパワハラと姥神大神宮の訴訟》にありますが、北前船とは、江戸時代から明治時代にかけて日本海海運で活躍した、主に買積みの北国廻船の名称です。買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指します。端的に言うと、表の昆布などの海産物の船荷を隠れ蓑にした裏の松の運搬船です。日本海沿岸では北前船とは呼ばず「千石船」と呼ばれていました。
「千石船」と呼ばれるのは、米千石相当の積載量を持つ船だからです。米千石とは現在の約1億円に相当します。1回の航海で大金が得られることも意味していると感じます。それは、表の海産物の商売だけでなく裏の松の商売があるからです。《北前船が築いた岩内の文化と漁師画家・木田金次郎の世界》には、北前船で栄えた岩内の地の様子が記されています。『岩内町には、1450年頃から人の往来がありました。本格的に町が形成されたのは、1751年に海の商人が岩内場所を開いた頃。江戸時代から明治時代にかけて、北前船の寄港地として大いに賑わい、多くの人や物資が行き交いました。
また、泊村の萱野炭鉱(北海道最古の炭鉱)で採掘された石炭を運び出す港としても重要な役割を担っていました』。現在でも同じですが、支配層の松利権が大きな場所は、人・物・金が集まる場所です。当時の岩内の地がまさしくその場所でした。《岩内:鰊漁だけでない様々なエッセンスを感じられる特異な街》には、犬養毅や福沢諭吉ら支配層が工作員として利用したと思われる朝鮮の著名な独立運動家・金玉均(きんぎょくきん)が出てきます。『朝鮮の著名な独立運動家金玉均が日本へ亡命した際に犬養毅や福沢諭吉らが支援したことは有名ですが、岩内の簗瀬家にも暫く滞在し、元会津藩士という経歴もあって手厚くもてなしたそうです。
お礼に岩内では未達のカレーライスのレシピを教わったそうです』。金玉均に着目して追いました。金玉均の経歴はwikiに記されています。『金玉均(1851年-1894年)は、李氏朝鮮後期の政治家で、朝鮮独立党の指導者。李氏朝鮮時代の思想家。本貫は新安東金氏。開明派(開化派)として知られ、朝鮮半島として初の諸外国への留学生の派遣や「漢城旬報」の創刊発行に協力した。[略歴]〈開化思想〉忠清南道公州に生まれる。1872年に科挙文科に合格し官界に入る。朴珪寿・呉慶錫らの影響で開化思想を抱いた。同じ仏教徒である李東仁の日本留学資金を援助。李氏朝鮮第26代国王・初代大韓帝国皇帝の高宗の王命「勅命」を受けて1882年2月から7月まで日本に遊学した。
福澤諭吉の支援を受け、慶應義塾や興亜会に寄食する。当時の日本の一部の思想アジア主義を金玉均が独自に東アジアに特化された「三和主義」を後に発案し唱えた。1882年10月、壬午事変後に締結された済物浦条約の修信使朴泳孝らに随行して再度日本を訪れ、福澤諭吉から紹介された井上馨を通じて横浜正金銀行から運動資金を借款し、朝鮮半島初の諸外国への留学生の派遣や朝鮮半島で初めての新聞である「漢城旬報」の創刊発行に協力した。幾多の功績は朝鮮半島の近代化に貢献した、一部の有識者や福澤諭吉などに「朝鮮半島の近代化の父」と呼ばれる貢献を残した。〈日本と清の関係〉清朝から独立し、日本の明治維新を模範とした朝鮮の近代化を目指した。
1883年には借款交渉のため国王の委任状を持って日本へ渡ったが、交渉は失敗に終わり、1884年4月に帰国。清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始したのを好機と見て、12月には日本公使の竹添進一郎の協力も得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こす。事件は清の介入で失敗し、わずか3日間の政権で終了した。井上角五郎らの助けで日本に亡命する。日本亡命中には岩田秋作と名乗っていた。〈暗殺〉当時の日本政府の政治的立場から、東京や札幌、栃木県佐野や小笠原諸島などを転々とした後、李経方(李鴻章の甥で養子、日本清国公使官)と李鴻章に会うため松江府上海県に渡った。
しかし、1894年3月28日に上海の東和洋行ホテルで朝鮮末期の高官の洪鐘宇に回転式拳銃で射殺された。〈死後〉諭吉は上海で暗殺された金玉均の供養のために法名をつけることを真浄寺の住職である寺田福寿に依頼した。福寿はただちに諭吉の要請に応え、「古筠院釈温香」という法名を付け、法要は東京朝鮮公使付通官山崎英夫や朴泳孝などを諭吉邸に招いて営んだ。遺髪と衣服の一部は金玉均の護衛であった日本人和田延次郎が密かに日本に持ち帰り、宮崎滔天たちによって浅草本願寺で葬儀が営まれた。甲斐軍治によっても遺髪・衣服の一部が日本に持ち込まれ、真浄寺に墓碑が作られた。後に甲斐の墓碑も隣に建てられている。
さらに犬養毅・頭山満らの支援で青山霊園の外人墓地に墓が建てられた。墓碑には朴泳孝の撰文、興宣大院君の孫である李埈鎔の書で以下が刻まれている。また千住の勝専寺には金玉均の揮毫による鐘楼再建記念の碑文がある』。李氏朝鮮の有名な独立運動家の金玉均は、日本の支配層の重鎮である福澤諭吉、犬養毅、頭山満らの支援を受けていました。日本の支配層は朝鮮の有名人を工作員に仕立てて裏の仕事をさせていたのです。太平洋戦争の時も同じですが、日本の支配層八咫烏は、大東亜共栄圏という支配層の松利権網を構築するために、アジア諸国を列強の植民地から独立解放することを謳い文句にして戦わせていました。
戦わせて、遺体や孤児を入手して松利権という裏金を得ていたのです。これが戦争という支配層の松利権工作になります。《福沢諭吉、大隈重信、岩崎弥太郎が設立した支配層の松利権網が絡む「横浜正金銀行」と「貿易商会」》にありますが、金玉均が運動資金を借款した「横浜正金銀行」は、福沢諭吉、大隈重信、岩崎弥太郎が設立した支配層の松利権網のための銀行です。実質的には、支配層の松利権の裏金を隠すために表の金と混ぜるマネロン処理のための工作拠点です。李氏朝鮮の有名な独立運動家・金玉均の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。支配層八咫烏亀派の工作員の役割だったと感じます。(つづく)