Chikusagawa01_960


2026
615()、茨城県下妻市の須藤豊次市長が隣町の八千代町の排水路の水門の柵でロープで首を吊っている状態で発見された「茨城県下妻市の市長急死事件」において、「排水路」や「鬼怒川」が重要なキーワードになると感じてネットで調べていきました。すると《江連八間土地改良区公式サイト》が目に留まりました。江連八間土地改良区(えづれはちけんとちかいりょうく)は、茨城県下妻市に事務所を置く土地改良区で、鬼怒川南部農業水利事業の施設などを通じて、周辺の農地に安定して水を送るための管理や整備を担っている農業者の団体です。受益地は下妻市・常総市・筑西市にまたがっています。

 

土地改良区は土地改良法に基づいてつくられた、公的な性格を持つ農業者の団体で、土地改良区の役割としては、以下のような仕事を行います。田畑に水を引くための用水路や排水路など水利施設の整備と維持管理、農道など農業用施設の整備と管理、ほ場整備など農地の区画整理や基盤整備。こうした活動を通じて、地域の農業生産を支える役割を持っています。江連八間土地改良区の区域は、茨城県の県西地域に位置し、下妻市(しもつまし)、常総市(じょうほうし)、筑西市(ちくせいし)の農地を対象としています。江連八間土地改良区は、このエリアの水田や畑にとって重要な農業用水路を管理している団体です。

 

江連八間土地改良区の公式サイトには、《組織の沿革》が記載されています。『江連八間地区の主体をなす、砂沼下流の沖積地帯がひらかれたのは、慶長年間のことです。伊奈備前守忠次が、豊加美村大字谷田部の弁納所提、および旧玉村大字若宮戸の常光寺提を築き、常総市の南、細代(つくばみらい市)にいたるまで、鬼怒川と小貝川を分離したことに始まります。それまで鬼怒川と小貝川は、下妻市の南で合流し、豊田と称する一大江流をなしていましたが、部分的に干拓開墾されていました。伊奈備前守忠次の子である忠治は、寛永12年に鬼怒川の左岸に中居指用水(14ヶ村)を設置しました。

 

また、本宗道用水(26ヶ村)、原用水(11ヶ村)、三坂用水(3ヶ村)の四箇用水をもうけました。さらに、大排水路(現八間堀川)を開鑿し、小貝川に排水しました。これが砂沼下流地帯の基本的な用排水整備の第一次事業です。忠治はさらに、寛文年間、つくばみらい市と板戸井(守谷市)の間を開鑿し、鬼怒川と小貝川を完全に分離して、直接利根川に流下させました。しかし、勾配の大きくなった鬼怒川下流部は、この頃から川底が低下し、やがて四箇用水とも取水が困難となりました。寛政寛保年代、圦樋(川の水を引き入れ、または川へ水を吐き出すための、水門に設けられた樋)の繰り上げ請願書をしばしば提出しました。

 

しかし、官財政が苦しいとの理由で採択されず、事後50年間は自然のなすままの営農で経営は困難の連続でした。一方、砂沼上流地帯には、享保11年に幕府が江村沼、砂沼、大宝沼を干拓し、その代用水として江連用水をもうけましたが、三溜井組合は取り入れ口のたびたびの災害にたえられず、幕府の許可を得て三溜池を復活し、約70年で水路は廃止されました。文政年間に入り、四箇用水の取水はますます困難にいたりました。54ヶ村の名主等があいはかり、江連古溝の復活繰上使用を幕府に請願しました。文政5年に旧溝の現地調査はなされましたが、組合内に一部反対があるとの理由で却下となりました。

 

中居指、本宗道の両組合では、初志貫徹に再度請願書を提出し、文政7年に測量と諸問題の調査がなされました。約5年間の歳月をかさね、文政11年に起工許可を得ました。・・・江連用水土地改良区と八間堀川沿岸土地改良区は、平成215月の合同役員会において、組合員の負担軽減を目的とした合併推進検討会を設置しました。平成225月には合併推進協議会が設立されました。平成2310月、茨第532号により江連八間土地改良区として認可されました。こうして、組合員6,400有余名、4,600haを擁す、新しい土地改良区が誕生しました』。

 

「江連八間土地改良区」は、茨城県下妻市に事務所を置く土地改良区周辺の農地に安定して水を送るための管理や整備を担っている農業者の団体です。江戸時代から茨城県下妻市・常総市・筑西市の地域が開墾(開拓)され、鬼怒川や小貝川の治水工事、利水工事が成されてきたことが分かります。土地の開墾(開拓)には、労働者を犠牲にした松取り(松果体収穫)の闇が潜んでいることが分かっています。詳細については、《庄内藩の人と土地を封じる松工作が成された松ヶ岡開墾場と西郷隆盛に師事したサンカの指導者・菅実秀》などの記事に記述しています。

 

また、《水の都・大阪の地を松取りの闇が潜む水路開削で松工作拠点の歓楽街・観光名所に変えられた道頓堀》から川や水路の開削工事や治水・利水工事にも、労働者を犠牲にした松取り(松果体収穫)の闇があることが分かっています。土地の開墾(開拓)や川・水路の開削・治水・利水の工事は、支配層の松取り工作であり、労働者の人たちの命が犠牲になってきました。松取り工作の第一の目的は、支配層の裏金の蓄財です。さらに、松取り工作が成されると、目に見えない光の精霊が闇に反転して深い闇の場所に変わります。深い闇の場所に成ると、支配層が一般大衆を支配する力が強くなります。

 

また、より一層深い闇の環境に成っていくのです。《自然豊かな水という光を封印する松取りの場所に置かれた結核研究所》には、結核予防会の傘下の東京都清瀬市松山にある結核研究所について記述しています。清瀬市は、清瀬の地名からも清い水という大事な光の場所であり、それ故に、光の精霊を闇に変える松取りの闇が潜む結核研究所が置かれたと見ています。重要な水という光の地を暗闇にするために、古くから松取り工作の組織・団体が置かれてきたのです。それ故に、茨城県下妻市に置かれた江連八間土地改良区の団体も、支配層の松工作組織だと推察します。

 

公式サイトによると、江連八間土地改良区の理事長は、吉原光夫です。吉原光夫のプロフィール・経歴に関するネット情報は殆ど見当たりませんでした。しかし、《江連八間土地改良区だより第5号》から、吉原光夫は、少なくとも平成28(2016)年から理事長に就任していることが分かります。江連八間土地改良区の理事長・吉原光夫本部所在地(茨城県下妻市羽子53-1)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「中国。現場」「いいです(OKです)」と伝えられました。やはり、支配層八咫烏鶴派の現場工作員のサンカの役割を担っているようです。(つづく)