
「江連八間(えづれはちけん)土地改良区」に関係する歴史上の人物や施設について、闇の解除を目的に調査とワークを行っていきました。まず、最初に、江連八間土地改良区の源流となる人物の「伊奈忠次(いなただつぐ)」を選びました。公式サイトの《組織の沿革》には、『江連八間地区の主体をなす、砂沼下流の沖積地帯がひらかれたのは、慶長年間のことです。伊奈備前守忠次が、豊加美村大字谷田部の弁納所提、および旧玉村大字若宮戸の常光寺提を築き、常総市の南、細代(つくばみらい市)にいたるまで、鬼怒川と小貝川を分離したことに始まります』と記載されています。伊奈忠次の経歴はwikiに記されています。
『伊奈忠次は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。武蔵小室藩・初代藩主。[生涯]〈生い立ち〉三河国幡豆郡小島城(現在の愛知県西尾市小島町)主・伊奈忠家の嫡男(忠家の父・忠基の末子との説もあり)に生まれる。永禄6年(1563年)に父・忠家が三河一向一揆に加わるなどして徳川家康の下を出奔。天正3年(1575年)の長篠の戦いに陣借りをして従軍して功を立て、ようやく帰参することができた。家康の嫡男・信康の家臣として父と共に付けられたものの、信康が武田氏との内通の罪により自刃させられると再び出奔し、和泉国・堺に在した。〈武将として〉天正10年(1582年)、三河譜代の家臣小栗吉忠の斡旋で家康の家臣に復帰した。
小栗の同心として三河の旧領地小島のほか曽我・西の嶋・南嶋で35貫文が与えられた。天正17年(1589年)頃には当時の徳川氏の領地である駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国において、検地や知行・年貢制度の改革の責任者に抜擢されている。天正18年(1590年)小田原攻略のときには、忠次は軍事兵糧の調達や輸送ならびに駿河・遠江の道路・橋梁の整備にあたり、富士川に舟橋を架し豊臣の大軍の通過に備えるなどの働きをした。〈代官として〉徳川氏の関東入国後は、大久保・彦坂・長谷川らと共に多数の代官を指揮する代官頭として関東の整備と統治を行う。忠次は小室領を拝領しそこに陣屋を構え、検地の実施・治水灌漑工事を指揮する。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいても他の代官頭とともに後背作戦に従事し、小荷駄奉行として軍事兵糧・兵器の輸送に当たっている。関ケ原の戦いの後に行われた大規模な知行割において、多くの知行書立の発給に関わっている。この年までには従五位下・備前守に叙任された。将軍徳川秀忠の代になり代官頭は消滅するが、忠次は検地、知行割、治水・灌漑対策、農政・民政、街道整備、寺社領政策といった代官としての支配を続け、伊奈氏による関東の代官支配の先駆けとなった。慶長15年(1610年)、61歳で死去、遺領と代官職は嫡男の忠政が継いだ。大正元年(1912年)、正五位を追贈された。
[功績]治水・利水事業、特に現在まで続く大規模プロジェクトである利根川東遷の端緒を開いたことは最大の功績といえる。1594年、それまで江戸湾に注いでいた利根川の流れを東へ転換させるため会の川を締め切り、江戸を洪水から守ると同時に新田開発を促進した。また、行田に築かれた巨大な遊水池機能を持つ中条堤や、荒川・綾瀬川を分離した備前堤など、洪水調節と利水を兼ね備えた高度な施設を構築し、関東の河川体系の基礎を築きあげた。新田開発・利水において、官名である備前守にちなんだ備前堀と呼ばれる用水路を各地(埼玉・高崎・水戸)に開削した。特に埼玉の備前堀は総延長23kmに及び、それまで不毛だった湿地帯を一大穀倉地帯へと変貌させた。
街道整備・産業振興にも功績を残す。1594年には隅田川に初めての橋となる千住大橋を架け、日光街道の玄関口を整備した。産業面では、当時衰退していた結城紬の改良・発展により復活させた』。江連八間土地改良区の源流となる伊奈忠次は、江戸幕府の代官頭をして、新田開発や治水・利水事業を担当して、支配層の松取り工作の中心人物としての役割を成してきたことが分かります。伊奈忠次の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。やはり支配層の工作員の役割を担っていました。次に、公式サイトに写真が掲載されていた「国登録有形文化財
江連用水旧溝宮裏両樋(えづれようすいきゅうこうみやうらりょうひ)」に着目しました。
江連用水旧溝宮裏両樋の情報は《下妻市公式サイト》に記載されています。『宗任神社の裏手にある「江連用水旧溝宮裏両樋」
が平成27年3月26日、下妻市初となる国登録有形文化財に登録されました。栃木県真岡市上江連を水源とし、鬼怒川と小貝川に挟まれた地域のかんがい用として
明治33年に設けられた分水施設「江連用水旧溝宮裏両樋」。昭和50年代に江連用水の流路が変更されたことにより使用されなくなりましたが、
歴史的に貴重な施設であるということから、周囲は公園として整備されています。江連用水には多数のレンガ水門が存在しましたが、現存するのはこの水門のみ。全国に数ある登録文化財の中でも、農業施設の文化財はかなり珍しいものです。
レンガ造りの東西二つの水門と、湾曲する擁壁が一体となっており、上流からの水を等分して下流に流すことができる構造になっています。水門中央部のせき柱は、上流部は船の先端のような水切りの形状で、下流部は階段状になっているのが特徴です。建築材として使われたレンガには、明治31年3月に開業した下妻市鯨の國府田煉瓦工場で製造されたことを示す、「∴」の刻印を見ることができます。レンガ水門の設計者等は伝えられていませんが、レンガの積み方はイギリス式が採用されています。「江連用水旧溝宮裏両樋」が国登録有形文化財に登録されたことを機に、「下妻いいとこ案内人の会」では、新たな歴史探索コースを設定しました。
「下妻いいとこ案内人の会」は、下妻市を訪れた方々を観光地などに案内し、ガイド活動を行っている市民ボランティアグループ。最近では、茨城県建築士会下妻支部と協力しながら「街並みウォーキング」を企画運営するなど活発に活動し、下妻市を訪れた方々に好評を得ています』。鬼怒川と小貝川に挟まれた現在の茨城県下妻市の地域の灌漑用の分水施設「江連用水旧溝宮裏両樋」のポイントは、國府田煉瓦工場で製造された煉瓦(れんが)を使っていることです。《水の地である北海道江別市の煉瓦が暗示する火を使った松果体収穫の隠す闇》にありますが、煉瓦は土を火で焼いて製造されます。
火を用いる煉瓦製造の裏で松取り(松果体収穫)の遺体廃棄物を燃やして証拠隠滅をする故に、煉瓦には重たい闇のエネルギーを帯びているのです。分水施設としての「江連用水旧溝宮裏両樋」に川の水を通すことで、光の水が闇に変えられる仕組になっています。川や水路の分水施設に限らず、明治時代に建物に煉瓦が使われていたことは、土地と人を闇にするためだったと見ています。江連用水旧溝宮裏両樋の所在地(茨城県下妻市本宗道 地先)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです(OKです)」と伝えられました。現実的には、水は火を消すことが出来ますが、エネルギー的には、闇の火が光の水を封印するのです。(つづく)