
ヴィルヘルム・ビヤークネスが師事した人物が、ドイツの物理学者ハインリヒ・ヘルツです。wikiには、『1888年にクリスチャニア大学に入学して数学と物理学を学んだが、学生時代から父の研究を手伝うようになった。ヴィルヘルムはドイツの物理学者ハインリヒ・ヘルツ(Heinrich Hertz)の研究が父の説にとって重要と考え、ボン大学でヘルツの弟子となった。1890年からヘルツの下で電磁波の研究を行い、伝導体に関する定数を決定する方法を考案して国際的な注目を集めた』と記されています。ヴィルヘルム・ビヤークネスが師事したドイツの物理学者ハインリヒ・ヘルツを追っていきました。
ハインリヒ・ヘルツの経歴はwikiに記されています。『ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツ(Heinrich Rudolf
Hertz・1857年-1894)は、ドイツの物理学者。マックスウェルの電磁気理論をさらに明確化し発展させた。1888年に電磁波の放射の存在を、それを生成・検出する機械の構築によって初めて実証した。[生涯]〈前半生〉ドイツのハンブルクで、裕福な文化的階級の家に生まれた。父は弁護士としてハンブルクの顧問を歴任し、後に政治家となった。母は医者の娘だった。3歳年下の弟と妹がいた。ヨハネウム学院に入ると、アラビア語とサンスクリット語の語学と同じように、科学への適性も見せた。
ドイツのドレスデン、ミュンヘン、ベルリン市で科学と工学を学んだ。キルヒホフとヘルムホルツの指導学生として、1880年にベルリン大学にて博士号を取得。その後もヘルムホルツの下に研究生として残った。1883年、キール大学の理論物理の講師となった。1885年には、カールスルーエ工科大学の教授となり、そこで電磁波を発見した。〈気象学〉1878年の夏、ミュンヘン工科大学にいたころの指導教官が気象学者のヴィルヘルム・フォン・ベツォルトであり、そのころから気象学にも深い興味を抱いていた。しかし、ベルリンでヘルムホルツの助手をしていたころにいくつか論文を書いた程度で、気象学の業績は多くない。
例えば、液体の蒸発についての研究、新たな湿度計の考案、湿潤な大気が断熱的に変化したときの特性をグラフを使って判定する方法などの論文がある。〈電磁気の研究〉1881年に行われたマイケルソンの実験(1887年のマイケルソン・モーレーの実験の前身)でエーテルの存在が否定されたのをうけて、ヘルツは電磁波の伝播をする機構を見つけるためにマクスウェルの方程式の再計算を行った。1886年、ヘルツは接地されない端子群から成る「ヘルツアンテナ」受信装置を開発している。また、極超短波送信用のダイポールアンテナも開発した。それらのアンテナは理論的観点から言えば最も単純な実用的アンテナである。
1887年、電磁波の発信と受信の実験を行い、アナーレン・デア・フィジーク
という学術誌に発表した。発信装置は誘導コイルとアンテナを組み合わせたもので、受信装置はスパークギャップのあるコイルであり、電磁波を受信すると火花放電が観測できる。火花をより観察しやすいように、ヘルツは暗くした箱の中に装置を置いた。すると、箱の中では火花を観測できる発信装置と受信装置の最大距離が短くなることを発見した。また、発信装置と受信装置の間にガラス板を置くと、紫外線が吸収され、やはり火花を観測できる距離が短くなったことから、紫外線が電子を補助していると考えた。さらに紫外線を吸収しない石英ガラスでは距離が短くならないことも発見した。
ヘルツは数カ月間実験を繰り返し、その結果をまとめた。この実験を通して、マクスウェルとファラデーが予言した通り、電磁波が空間を伝播することが証明され、無線の発明の基礎となった。ただし彼はそれ以上この現象を研究することはなく、観察された現象についていかなる解釈も提示していない。ヘルツの実験装置では、送信装置から12メートルの位置に亜鉛の反射板を置いて、定常波を形成していた。電磁波の波長は約4メートルである。その間の様々な位置に受信装置をおいて、振幅や波動の方向を観測した。そして、電磁波の速度は光速に等しいという結果を得た。電場強度や極性も測定している』。
ハインリヒ・ヘルツは、電磁波の存在を実験で確かめた人物として有名であり、周波数の単位であるヘルツ Hzが、ハインリヒ・ヘルツの名前に由来します。マクスウェルが理論で示した電磁波を実験で示し、後の無線通信やラジオ、スマートフォンの基礎につながる研究を行いました。ハインリヒ・ヘルツの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「アーク」と伝えられました。ハインリヒ・ヘルツは、アーク(アークトゥルス)の宇宙人が憑いていた工作員の役割を担っていたようです。アークの宇宙人は、アーク火花(アーク放電)と言われるように火のエネルギーを有しています。火は闇の役割として水の光を封じる働きをしてきました。
それ故に、電気は火のエネルギーでもあります。ハインリヒ・ヘルツが発展させた電磁気理論を提唱した理論物理学者がマックスウェルです。マックスウェルについて追跡していきました。マックスウェルの経歴はwikiに記載されています。『ジェームズ・クラーク・マクスウェル(James Clerk
Maxwell、1831年-1879年)は、イギリス・スコットランドの理論物理学者。姓はマックスウェルと表記されることもある。マイケル・ファラデーによる電磁場理論をもとに、1864年にマクスウェルの方程式を導いて古典電磁気学を確立した。さらに電磁波の存在を理論的に予想しその伝播速度が光の速度と同じであること、および横波であることを示した。
これらの業績から電磁気学の最も偉大な学者の一人とされる。また、土星の環や気体分子運動論・熱力学・統計力学などの研究でも知られている。[経歴]マクスウェルは1831年6月13日にスコットランドのエディンバラで、弁護士のジョン・クラーク(John Clerk)とフランシス・ケイ(Frances Cay)の間に生まれた。1841年11月に10歳でエディンバラ中等学校に入学し、当初は訛りをからかわれたもののやがて早熟な才能を示した。14歳の時には書いた詩が「エディンバラ通信」に掲載され、その半年後には複数の焦点を用いた卵形線の定義とこれに基づいたピンと糸による描法を考え出し、論文として発表している。
この業績はエディンバラ大学のジェームズ・フォーブスに認められ、エディンバラ王立協会で発表された。1847年に16歳でエディンバラ大学に入学し、偏光による弾性ひずみの観察の研究などを行なった。さらに1850年にケンブリッジ大学のピーターハウスカレッジに入学したが、翌学期から学内のトリニティーカレッジに移った。卒業後も教授の資格を得るためにトリニティーカレッジに残ってフェローとして研究や学生の指導を行ない、1855年12月10日にはマイケル・ファラデーの提唱した磁気力線に関する論文を発表した。これが契機となって、後にファラデーとの間に交流が生まれている。
1856年4月30日付でトリニティーカレッジの研究員となり、さらに同年10月15日に故郷のスコットランドのアバディーンにあるマーシャルカレッジで科学哲学の教授に就任した。なお、4月2日には父・ジョンが亡くなった。この頃ケンブリッジのアダムズ賞に取り組み、1857年度の課題だった「土星の環の構造と安定性」について1856年12月16日に論文を提出し、翌1857年5月30日に受賞した。この論文において安定して環が存在し続けるためには、環は無数の粒子から構成されていなければならないとの結論を得ている。1858年2月にはマリシャルの学長の娘であるキャサリン・マリー・デュワーと婚約し、同年6月に披露宴を挙げている。
1859年9月21日に発表した気体の動力学的理論の論文では、個々の粒子の速度分布はマクスウェル分布に従う事を示した。1860年、マーシャルカレッジと近郊のキングスカレッジとの統合にともない教授の職を失った。マクスウェルはグレンレア領の領主であり、所有地からの収入は年間2,000ポンドに上っており収入の不安はなかったが、マックスウェルは同年10月からロンドンのキングス・カレッジ・ロンドン(前述の統合校とは別)の応用科学の教授職に就いた。1861年には、光の三原色それぞれのフィルターを着けて撮影した3枚の写真を重ねることで史上初めてカラー写真の撮影に成功した。また同年、気体の分子運動論の論文を発表した。
この論文では、エーテルの中で力線に沿って整列した渦流が敷き詰められ、その間に小さな歯車のような存在があって噛み合っているという力学モデルを提案した。これは現実的ではないが、ここから正確なアンペールの法則が初めて導き出された。さらにエーテルを弾性体として電気・磁気の力によって伝播する波の速度を求めたところ、光速度とほぼ一致することが明らかになった。すなわち光は横波であり、かつ電磁気と一体の現象として捉えられることがわかった。同年王立協会フェロー選出。これらを整理して渦流を用いずに説明できる電磁場のモデルであるマクスウェルの方程式を導き、1864年に王立協会で発表した。
1864年(及び1870年)には、マクスウェル・ベティの相反作用の定理に関係する論文も発表している』。マクスウェルは、電気と磁気と光をひとつの理論で結びつけたことで特に有名です。最大の功績は、マクスウェル方程式として知られる電磁気の理論をまとめたことです。光が電磁波の一種だと説明できるようになり、現代の通信や電子技術の土台が築かれました。マクスウェルの仕事は、ニュートン力学のあとに続く物理学の大きな転換点とされ、無線通信やレーダー、光学、電気工学など、今の社会を支える多くの技術に繋がっています。マクスウェルの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「プレアデス」と伝えられました。闇の叡智を有するプレアデスの宇宙人が憑く工作員の役割だったようです。(つづく)