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一昨日の夜11時過ぎ、急に左の首と頭に強い痛みを覚えました。2日前の頭痛と夢から日本海側の土地を解除する必要があると感じていました。自分に光を降ろすと「分からない」と伴侶が言いました。


私は、今世の会社の縁と過去世の縁から、元大倉財閥・創業者の「大倉喜八郎」に関係していると思いましたウィキペディアには、彼の評価は驚くほどに二分されると記されていました。


「世にもまれな商傑」「日本の近世における大偉人」「すべてを超越した人」と絶賛される一方で、大久保利通井上馨らとの親交から「政商」「死の商人」「グロテスクな鯰」と酷評されたといいます。


近代日本における大きな闇の役割を担った1人だったと感じます。大倉喜八郎の生まれ故郷の新潟県新発田市にヒントがありました。新発田市を調べると明治から戦前にかけては「軍都」だったといいます。


広島と同様に、地元の城である「新発田城」が陸軍の拠点になっていました。新発田城は市の中心にありました。新発田城と大倉喜八郎生誕碑の場所に光を降ろしました。

 

「光は入りました」と伴侶が伝えて来ましたが、特に変化はありませんでした。まだ、他に光を降ろすべき所があると感じて、思案していると「あっ、あの山かもしれない」と伴侶が言いました。

 

「昨日、テレビで登山しているのを観た」というのです。南アルプスの「赤石岳」でした。大倉喜八郎が88歳の時、現在の通貨価値で1億円以上かけて登山したといいます。

 

「”自分の所有地の一番高いところに登りたい”と、約200人の人足を引き連れ、駕籠(かご)に担がれて、大名登山のごとく赤石岳に登頂した」と書かれていました。

 

どうやら「赤石岳」は大倉喜八郎の所有地だったようです。それにしても、非常に不自然な気がします。「赤石岳」を意図して光を降ろすと「自分から光が出て開きました」と伴侶が教えてくれました。

 

伴侶から出た光は、シリウスの闇を解除するためのシリウスの光でした。「赤石岳」が開いたのです。実は、大倉喜八郎は、東京で「狂歌」を学んでいました。

 

この「狂歌」が封じる術だったと感じます。どうして「赤石岳」なのか、です。調べて見ると「糸魚川・静岡構造線」に沿う山並みの山でした。もう1つ気になる山がありました。(つづく)