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昼前、地下鉄東西線・宮の沢駅に用事で行くついでに「手稲記念館」を見学して来ました。予め目的地は決めてませんでしたが、宮の沢駅の地図を見て決めました。

 

「手稲記念館」は、駅から徒歩10分程の所にありました。小さな公民館の中にある資料室のような感じでした。部屋には、資料や写真、動物のはく製などたくさん展示していました。

 

手稲地域には、旧仙台藩の白石城主・片倉小十郎邦憲が北海道開拓を命ぜられ、家臣150戸600余人が開拓に入りました。その後、50戸241人が手稲の地に入植したのが発祥とされています。

 

札幌市白石区の名称もこの白石城から来ているといいます。部屋に入ると、すぐに独特の臭いを感じました。以前、訪れた北海道知事公館の時のようでした。

 

「闇が凄いから光を降ろした方がいい」と伴侶が言ったので、私は祈りながら光を降ろしました。人間に殺された沢山の「野生動物たち」と金や他の鉱物が産出される「手稲山」が気になっていました。

 

帰宅後、PCに向かって調べていると、急に喉の詰まりと胸の苦しさを感じて来ました。伴侶に観てもらいながら、自分に光を降ろすと「もの凄い数の亡くなった人たちが来ている」と驚いた様子で伝えて来ました。

 

「武士やお百姓さんなどいろんな人たち」といいます。PCで調べている時「奥羽越(おううえつ)列藩同盟」が目についていました。戊辰戦争際し奥羽北越諸藩が、官軍に抗戦するために結んだ攻守同盟です。

 

亡くなった人たちの御魂が上がるよう光の柱を降ろすと「みんな昇って行っている」と伴侶が伝えて来ました。胸の不調は幾分改善しましたが、喉の詰まりは無くなりませんでした。

 

思い当たるポイントとして「手稲神社奥宮」「手稲山」などをピックアップして光を降ろして行きました。最後に気になったのが、手稲記念館にも土があった「バッタ塚跡」でした。

 

「バッタ塚」とは、蝗害(こうがい:バッタによる災害)の根絶を祈願して建てられた記念碑です。北海道開拓使時代に、十勝地方から札幌までバッタが大量発生して作物の被害が発生しました。

 

明治政府は被災者の救済も兼ねて市中からバッタの卵を買い集め、砂地だったこの地に埋めて、バッタを減らそうとしたといいます。「バッタはゴキブリと同じくらい嫌なもの」と伴侶が言いました。

 

「ゴキブリ」は、金やエゴの闇のエネルギーだと分かっていました。北海道には「ゴキブリ」は生息しないので、エゴの闇を広げるために「バッタ」が代用されたと感じました。「バッタ屋」「バッタもん」からも分かります。

 

バッタの卵を土に埋めることはエゴの闇を置くことでした。バッタ塚跡を意図して光を降ろすと「火で燃えた感じ」と伴侶が伝えて来ました。さらに、闇の仕事をしていた過去世の自分も光に還しました。

 

ようやく喉の詰まりが治りました。手稲の地は、湿地帯で本来は光の場所でした。光を封じるためにエゴの闇で覆ったのです。札幌の地を開くワークは、まだ続いていきそうです。