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陸軍中野学校は、諜報防諜宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍軍学校情報機関です。かつての所在地は東京都中野区中野4丁目付近で、校名の中野は地名に由来します。

 

1937年(昭和12年)、岩畔豪雄(いわくろひでお)が、参謀本部に「諜報謀略の科学化」という意見書を提出したことが陸軍中野学校の創設の始まりで、同年末、陸軍省が中心となって創設を決定しました。


岩畔豪雄、秋草俊福本亀治各中佐を中心に、1938年(昭和13年)3月に「防諜研究所」として新設されました。同年7月より特種勤務要員の教育を開始しました。1939年(昭和14年)5月に同研究所は「後方勤務要員養成所」に改編します。


同年7月には第一期学生の卒業を迎えます。1940年(昭和15年)には「陸軍中野学校」と改名し、1941年(昭和16年)には参謀本部直轄の軍学校へ転身し、その存在は陸軍内でも極秘とされていました。

 

創立当初は東京・九段に仮校舎があり、1939年(昭和14年)4月に旧電信隊跡地の中野区囲町に移転し、1945年(昭和20年)4月、空襲の激化に伴い群馬県富岡町疎開し富岡中学校などの施設を利用して講義が行われました。

 

1944年(昭和19年)8月、静岡県二俣町(現在の静岡県浜松市天竜区)に遊撃戦(ゲリラ戦)の要員養成を主たる目的として「陸軍中野学校二俣分校」が設立されました。1974年(昭和49年)にルバング島から帰国した小野田寛郎は、同行の卒業生でした。

 

陸軍中野学校は、1945年8月15日の敗戦で閉校しましたが、その一部は以降も国内外で活動を継続していたと見られ、占領軍に対するゲリラ攻撃を計画するなどしていたともいいます。二俣分校を含む卒業生の総数は2,500余名とされます。


学生は軍服を着用せず、また任務の性質上、一般人のなかでも目立ちにくいように普段から平服姿に長髪でいる事が推奨されました。また、諜報能力を養成する関係から外国語の技能は必須であり、英会話することで勧められました


謀略機材の研究をしていた登戸研究所から特殊爆弾や偽造紙幣の製造法等を学んでいたとされます。陸軍中野学校は、明石元二郎を教科書の手本としていました。

 

明石元二郎は、日露戦争を勝利に導いた奇跡の参謀とされる日本人スパイで、裏側に関係していました。日本で初めての右翼団体「玄洋社」の社員でもあり、玄洋社の海外工作センターとされる「黒龍会」と繋がっていました。

 

黒龍会は、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭と呼ばれた頭山満が顧問でした。大陸浪人を利用した朝鮮半島での日本による実質的な反社活動に深く関わっていたと感じます。

 

北朝鮮を作ったという畑中理は、朝鮮名を金策(キム・チェク)と言われています。畑中理は、黒龍会のメンバーであり、明石元二郎によって北朝鮮の抗日組織に送り込まれたともされます。(つづく)